浄土宗 浄土宗暦 今月の言葉
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2000年 1月


(揮毫は大本山善導寺法主民谷隆誠台下)
 「南−無−阿−弥−陀−仏」と大きな声で称えつつ街を托鉢(たくはつ)して30年近くになります。
 同じ道を同じ時刻に歩くのですが、不思議に毎日出会う人は、それぞれ違います。毎日顔を出して必ず喜捨(きしゃ)くださる人、週一度、月一度、たまたま出会う人。老若男女を問わず、毎日60人ほどの人とお十念をして出会います。これらの人とのご縁は、大切な出会いでもあります。
 ただ托鉢僧の姿をして歩くだけで、「有り難うございます。ご報謝(ほうしゃ)です」と、頭(こうべ)をさげ喜捨くださります。感激です。損か得かの金一辺倒の時代に、喜んで捨ててくださる奇特な方に、お十念を申し上げるのです。
 托鉢は本来、僧の経済生活の基本で、行としては、自己の執着心や我欲を無くすことにあります。托鉢を始めた当初は、私もそんな純な心で歩いていました。
 しかし、慣れとともに、この純な心も濁り、いつしか心の内なる我欲のとりことなったのです。若いころの私は、この心こそ煩悩と呼ばれる、断ずべき心であるとは真剣に思いませんでした。煩悩の真っ只中にいながら、それを煩悩とは気がつかず、煩悩のなすがままに生きていた訳です。
 最近になってやっと、いかに自分は煩悩の固まりであるのかと、嫌というほど気づかされました。これを教えられたのも托鉢でした。一体自分は、何のために托鉢をしているのか、名ばかり姿ばかりの僧……。
 こんな悩める私が救われたのは、法然上人の「阿弥陀仏の本願の念仏」との出会いでした。
 上人も悪業煩悩に悩み抜かれ、それを乗り越えるために大変なご苦労の末「本願の念仏」を見出されたのです。
 私は今まで、念仏を称えながらも、上人の教えが自己のものとならず、よく分からなかったのですが、自身の煩悩に気づくと共に、「そうなのか」と、納得でき、素直に念仏申さずにはおられない身になりました。
 執着心や我欲のはからいを一切打ち捨て、お念仏に任せる。愚かな私のはからいあるが故に、悩む自分に気づき、念仏申しつつ、楽に托鉢を行ずることができるようになったのです。
 阿弥陀さまはお念仏申すよう、常に私を見そなわしていてくださります。お念仏により、煩悩ばかりの者が救われるという法然上人の教え。すなわち「弥陀の本願の念仏」との出会いこそ私にとって最も大切な出会いといえましょう。托鉢と共に。

(名古屋市東区・西蓮寺 大田弘光)
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