法然上人の足跡
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■法然上人の足跡

 法然上人の母秦氏は、岩間山本山寺に子授け祈願をされた後、剃刀(かみそり)を呑むという不思議な夢を見て懐妊した。そして、長承2年(1133)4月7日、男の子が誕生し勢至丸と名付けられた。後に法然上人となられる。
 誕生のとき、どこからともなく、二本の白い幡(はた)が風に乗って飛来し、屋敷の大きな椋の木にかかり、7日間風にはためいていたが、やがてどこかに飛び去ったといわれている。このことから、この椋の木は「両幡の椋(ふたはたのむく)の木」といわれている。
 勢至丸という名は、み仏のいのちをうけ、勢至菩薩のように賢い智恵を持った子供という意味である。
 愛情いっぱいに育てられた勢至丸は、すくすくと成長し,学問だけでなく、武芸の修行も怠らない子供であった。なかでも、弓を射ることは、大変上手であったという。
 保延7年(1141)、勢至丸9才のとき、漆間家に明石源内武者定明(あかしげんないむしゃさだあき)らが、不意の夜討ちを仕掛けてきた。勢至丸は、物影に難を避けていたが、見ると父時国が、敵に弓矢でねらわれていた。とっさに勢至丸は、使いなれた小さな弓で、敵明石源内武者定明めがけて射はなった。矢は、見事に眉間に命中した。傷を負った定明は、したたる血を屋敷側の小川で、洗い流し、引き上げていった。
 後に残されたのは、傷つき倒れた漆間家の家来たちと、踏み荒され、血塗られた屋敷と、深い傷を負って苦しむ父時国であった。
秦氏の懸命の看病にもかかわらず、父の病状は悪化していくばかりであった。時国は、秦氏と勢至丸に
「お父さんの傷は、もう治らないだろう。もし、私が死んだら、おそらく父の仇を討とうとするだろう。しかし、決して仇を討とうと思わないでほしい。定明を恨まないでほしい。もし、お前が仇を討とうとするならば、両家の争いは永久に絶えないだろう。このようなむごたらしい争いが、いつまでも続くだろう。かわいいお前や、お母さんを残して別れてゆくのは、たえがたい悲しみだ。こんな苦しみや、悲しみは、私ひとりでたくさんだ。恨む心を捨ててほしい。それが本当の幸せになる道なのだ。そのような心を求めて出家し、人々を救ってほしい。これが私の今生における最後の言葉だ。」息もたえだえにそう語り、息を引き取ったと伝える。
 保延7年(1141)3月13日の暁のことであった。父時国43歳の若さであったとされる。
 屋敷は深い悲しみにつつまれた。勢至丸も生まれてはじめて、深い悲しみにうちひしがれていた。