法然上人の足跡
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■法然上人の足跡
法然上人は15才で得度叡山に入られました。当時諸大徳、学者の雲集する叡山でも、智慧第1、勢至菩薩の再来と言われた秀才でした。しかし叡山黒谷の叡空上人の膝下で、一切経を5度も読破する猛勉強をされましたが、自己の魂の救済が得られませんでした。かくして20数年間懊悩の日を過ごされた上人は、ある日善導大師の「観経の疏」の中から「一心専念弥陀名号、行住往座臥不問時節久近、念々不捨者是名正定之業、順彼仏願故」<常に南無阿弥陀仏とお名号を称え離れないのが仏道修行する者の勤めだ。弥陀の本願に叶う道だから>の文を発見され、専修念仏立教開宗の信を確立されました。承安4年(1174)上人43才の時です。
大無量寿経の中に、阿弥陀仏がまだ修業中、法蔵菩薩と名乗っておられた時にたてた48の誓願があげられており、その第18番目に「たとえ、われ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽して、わが国に生まれんと欲して、乃至十念せんに、もし生まれずんば、正覚を取らじ」とあります。「お念仏をする人を西方浄土に迎えよう。若し実行できないならば仏にならない」と誓っておられるのです。そしてすでに成仏なさっておられる。つまり念仏往生は十劫の昔に決定しており、私達はただあるがままに念仏さえ称えておれば、おのずから浄土にゆけると説かれたのが法然上人の専修念仏です。南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏の願いに対する応答です。南無阿弥陀仏において、われわれは自分を発見し、無限の大慈悲を感ずるのです。
上人は、南都の古宗、真言、天台と言った聖道門を捨て、経典や自力の修業を捨てて、南無阿弥陀仏の念仏ひとすじに生きる浄土門を「選択」なさいました。難解な経典を学び、肉体的にも苦しい修業に耐えてはじめて救済が得られると言う仏教を 貴族も武家も無知な庶民も差別することのない、国民大衆のものになさったのです。
専修念仏の道に入られた法然上人は、叡山黒谷の報恩蔵を出て、26年間籠居された叡山を下り、しばし西山の広谷(粟生光明寺)に留まられたが、やがてここ東山吉水に移られ、念仏を宣揚なさいました。
かくして43才より、75才(承元元年)(1207年)住蓮安楽の騒ぎで、讃岐の国に流罪になられるまでの30数年間ひたすらこの吉水草庵(安養寺)を念仏興行、自行化他の道場の本拠として布教伝道なさいました。 法然上人の門下には、関白九条兼実公、武家では熊谷直実、僧侶では、それぞれ浄土宗の一派をあみ出した高僧たち、それに阿波介という盗賊もいれば、遊女、白拍子もあつまり、吉水の禅坊は漸次発展して、中・西・東と三坊に拡張されましたが、親鸞聖人も建仁元年(1201) 29才の時に六角堂の観世音の夢のお告げに従って吉水に参入念仏門に投ぜられたのでした。