法然上人の足跡
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■寺暦
    興善寺の往古は、南都七大寺の1つである元興寺境内の伽藍に属し、奥の院と称して室町時代、天正年間(1573〜92年)にその基ができあがったとされ、その後南都の楽人の墓寺からいわゆる町寺へとその性格を変えつつ現在に至っている。また「奈良平城京目坊拙解」古老伝には、「興善寺は始め十輪院境内であり三尊石仏を守って僧侶が住んでいた。その僧侶は真言の地であるにもかかわらず浄土僧で、次第に檀家が増し、墓地も構えられ、本堂も建立されたが、いまだ南北の惣門は無く、参拝の人々は十輪院の門より往還したので、俗に"奥の寺"と呼ばれ、その後、知恩院の末寺となり、元和年間には本堂と方丈、方丈、北門が建立され"奥の寺"を改めて興善寺と称した。」と記されている。

■御本尊 快慶作「阿弥陀如来立像」(鎌倉時代前期)※重要文化財
     御本尊の阿弥陀如来像は快慶作の来迎形立像で、像高約90cm、白毫、玉眼は水晶、当初は粉溜装飾が施すされている。
     御本尊の右足柄外側には造顕当時の追銘、また左足柄外側にも寄進銘があり、この寄進銘によると天正7年(1579年)4月に奈良市東方の東山田原村にあった寺庵から、興善寺の創建にあたり念仏衆より寄進されたことが記されてあり。興善寺の過去帳にも、慶長10年(1605年)に入寂した金蓮社慶誉上人が、天正年間に興善寺を創建し、本堂の建立にあたり、東山田村から阿弥陀如来像を移し本尊としたとある。
     また、昭和三七年(1962年)4月には、この阿弥陀如来像の胎内より源空上人(げんくう=法然の諱=法然は房名)とその門弟である證空上人などの消息と紙背結縁交名状、漆器筒形納骨器が発見された、折しも当時は法然上人750年大遠忌の翌年であることからその因縁にみな驚き「法然上人自筆の手紙大発見!」と報道各紙によって取り上げられ、紙面を多いに騒がせた。
     この阿弥陀如来像は昭和四十年(1965年)5月より重要文化財に指定されている。