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滅後の法難

■『選択集』開板印行

上人がなくなられた年の九月、その主著である『 選択集 (せんちゃくしゅう) 』が開板印行され、大きな波紋をなげかけました。真言の静遍(1166~1224)や天台の明禅、三井園城寺の公胤(1145~1216)などは専修念仏を心よく思っていませんでしたが、ひとたび『選択集』をひもといて専修念仏の人ととなりました。栂尾の明恵高弁(1174~1232)は、上人の智慧と戒徳のすぐれていることに敬意をはらっていましたが、『選択集』をみるにおよんで、専修念仏の道俗が主張する邪見、邪説こそ『選択集』にそのみなもとがあるとし、建暦二年に『 摧邪輪 (ざいじゃりん) 』三巻を、また翌年には『 摧邪輪 (ざいじゃりん) 荘厳記 (しょうごんき) 』一巻を撰しました。

このような『選択集』に対する批難はあとをたたず、『弾選択』を書いた天台の定照、『立正安国論』をあらわした日蓮らが続きました。定照に論争をしかけられた長楽寺隆寛(1148~1227)は、『顕選択』をあらわして『弾選択』を批判しました。この『顕選択』は叡山の衆徒の反発をひきおこしました。彼らは専修念仏者をみつけ次第、ところかまわず黒衣をひきさくなどの乱暴をはたらいたのです。

嘉禄三年(1227)六月二十二日には上人の墳墓を破却したり、七月六日には陸奥国へ隆寛を流刑にしたり、また叡山大講堂前で『選択集』の板木を焼却したりしました。

■嘉禄の法難

上人の遺骸を鴨河へ流すという計画があったので、信空や覚阿らが相談し上人の遺骸を嵯峨の地に移しました。ときに宇都宮頼綱入道 蓮生 (れんしょう) 、千葉入道法阿、渋谷入道道遍、内藤入道西仏など関東御家人の念仏者が警備にあたって、 太秦 (うずまさ) の地に運ぶことができました。

翌年(安貞二年1228)正月二十五日、上人の十七回忌を (ぼく) して、西山粟生野の幸阿のもとに遺骸をうつして、ここで信空、証空、覚阿らの門弟がみまもるなかで荼毘に付せられるにいたりました。

略年譜