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教えを広めた弟子たち

聖光房弁長 (しょうこうぼうべんちょう)(1162-1238)(応保2-嘉禎4)

浄土宗の第2祖。鎮西流の祖。字は弁阿・聖光房という。九州西北部を中心に活躍したため、鎮西上人・筑紫上人・善導寺上人などとも尊称される。

応保2(1162)年、5月6日、筑前の国香月荘楠橋邑(現福岡県北九州市八幡西区香月町)に古川弾正左衛門則茂(入道順乗)の子として生を受け、生後まもなく母と別れ、68年(仁安3)7歳で菩提寺妙法について出家。75年(承安5)筑紫観世音寺で登壇受戒し、以後8年間、白岩寺の唯心・明星寺の常寂について天台の研鑚修学につとめた。83年(寿永2)22歳のとき比叡山にのぼり、東塔南谷の観叡の室に入った。のち東塔東谷の証真(宝地房)に6年間師事して天台の奥義をきわめた。90年(建久1)郷里の香月に帰り、翌年油山(福岡市の西南)の学頭に推挙され、また発心城主草野永平の帰依を受けるようになった。93年(同4)異母兄弟に当たる三明房が死ぬとき気絶する様子を見て無常を感じ、ひそかに天台の法門を捨て、浄土の法門に心を引かれた。このころ明星寺三重塔(五重塔ともいう)の再建運動が起こり、弁長はその事業に専念して完成を見た。

ついで97年(同8)層塔に安置する本尊を注文するため上洛して仏師康慶に依頼した。本尊の完成する3箇月間在洛した弁長(36歳)は、当時専修念仏者として有名な法然上人を京都に訪ね、三重の念仏を聞いて得心し、弟子となった。一旦本尊仏を抱いて帰郷した弁長は、開眼の法要をすませたのち再上洛し、1204年(元久1)までの前後8年間法然の膝下で師事、親しく面授付法を受け念仏の教えを正しく継承する人となった。自らも九州油山の学頭として名を馳せていた聖光は、「法然がいかにすばらしいとはいっても、どれほどのものであろうか」といった慢心があったようである。しかし、いざ対面をして話を進めるうちに法然上人の知識の奥深さに舌をまくばかり。感服した聖光は法然上人の許で修学することとなった。 その後、『選択集』を与えられ「この書を写し末代によく広めなさい」と、そしてさらに「私の思う所はすべてあなたに伝えた」との言葉を賜った。すると聖光は「私にとっての釈尊とは法然上人のことである」と、その感激の胸の内を表したという。

元久元(1204)年、故郷に帰った聖光は、法然上人が心の師と仰いだ中国浄土教の大成者善導大師をも慕い、九州の念仏道場の拠点として善導寺を建立している。

また筑後高良山(久留米市)のふもと厨寺(くりやでら)(聖光院安養寺)で1000日の如法念仏を行った。途中で天台・真言僧の反対運動も起こったが無事満行し、一躍有名となった。12年(建暦2)弁長は善導の逮夜と法然の77日逮夜に当る3月13日、彦山の般舟三昧道場で追恩のため別時念仏を行ない、善導来朝の霊夢を感じた。14年(建保2)入河は京都より下って入室、のち弁長の右腕となって活躍する。

20年(承久2)檀越草野永平は山下郷の善導寺(前光明寺)を改築して大伽藍とし、ここが九州における念仏布教の基盤となる。筑後の地にあって自行化他につとめ、とくに宗祖滅後、聖道諸宗のはげしい非難攻撃と、宗祖門弟による背私自立の異議続出するなかにあって、選択本願・専修念仏の祖道を祖述し、顕彰することによって、浄土宗の正流の宗学を確立することになる。

こうして弁長の精力的な活躍が展開されてゆく28年(安貞2)10月25日、弁長は肥後往生院(熊本)で48日の別時念仏を行なった。この間『授手印』を撰述した。 これは伝宗第二重の巻物である。これは弁長が善導教学を背景として、法然から相伝した教えを、六重22件、55の法数に及ぶ宗義と行相のもとに結帰1行説をたてて、選択本願、念仏一行三昧に結帰することを示したもの。 以後浄土宗5重の中心として相伝の奥義とされてゆく。弁長の行動範囲は、筑前・筑後・肥後に及ぶ。しかも、その教化はつねに念仏道場の建立を伴なっている。 伝説では48寺を建立したといわれるが、筑前の善導寺・吉祥寺・光明寺・本誓寺・極楽寺、筑後の善導寺・陽善寺・安養寺・天福寺・地福寺・光明寺・無量寿院、常念寺、肥後の往生院、五福寺・三宝院、西光院など、ゆかりの現存寺院は多い。 門下も入阿をはじめ聖満・宗円・円阿・唯称・生仏・行仙・持願など多くを数えるが、中でも宗円は、33年(天福1)弁長の命によって入宋し、廬山などで善導作の『弥陀義』を探したが、ついに求めることができなかった。 このように寂するまで弁長は善導を慕い、浄土教の研鑚に励んでいる。だからこそ法然に帰依する心が深まり、『念仏名義集』『浄土宗名目問答』『念仏三心要集』『浄土宗要集』『徹選択集』『識知浄土論』『臨終用心鈔』など、多数の著述を残す結果となった。 なかでも、『徹選択集』は聖道諸宗からの非難攻撃を意識して、聖浄兼学の必要を強調し、通別念仏という独自な考えを打ちたてて「別より通に徹せしむ」ことをあきらかにして称名念仏と諸行との関係を解明する外、二十二種選択義・浄土菩提心などの説をかまえて祖師の教議の顕彰に当たった。 36年(嘉禎2)9月8日、良忠は九州に下って上妻天福寺で弁長に対面し弟子となった。良忠はここで『浄土宗要集』(西宗要)の講義を受けて筆受し、翌年善導寺で『徹選択集』の授与を受け、璽書を与えられた。 8月3日、良忠は『領解末代念仏授手印鈔』を作って弁長の印可を受け、後継者(の1人)となった。門弟のなかから付法に最適な良忠を選び、これにすべてを伝授し、正流の隠没を防ぎ、以後の発展を期した功績に対して、末徒等しくその高恩を感謝しなければならない。この後良忠は故郷の石見に帰って布教するが、弁長は翌38年(暦仁1)77歳で入寂した。

こうして法然上人から伝えられた念仏の教えを、さらに後世に正しく伝えるために、多くの弟子を導いた。そして後の浄土宗第三祖となる良忠(りょうちゅう) を後継者として、そのすべてを伝えた嘉禎4(1238)年2月29日、お念仏のうちに往生をむかえた。享年77歳のことだった。 法然滅後、門下は他流他派に分かれたため、弁長在世中における浄土宗二代の位置は不安定なものであったが、良忠とその門下が活躍するにつれて、弁長の二代の位置は確立された。弁長は芸術的素質を持った人で、自作の仏像や自像を残している。郷里香月の誕生山聖光院吉祥寺本尊は 腹帯(はらおび)阿弥陀如来と呼ばれ、安産守護のみ仏として今も信仰が篤い。また『授手印』を詠歌のようによんで念仏をするなど、善導寺楽との関係も深い。1827年(文政10)大紹正宗国師の号を賜った。(閏二・二九寂)

浄土宗第二祖として、浄土宗の流れを伝えた聖光、主に九州の地で布教・教化にあたったことから鎮西(ちんぜい)上人とも呼ばれている。

(浄土宗大辞典・浄土宗新聞平成12年11・12月号記載より)

鎮西聖光上人略年譜