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あらゆる階層の帰依者たち

九条兼実 (くじょうかねざね)(1149-1207)(久安5-承元1)

父は摂政関白太政大臣藤原忠通の第3子、母は大皇太后宮大進藤原仲光の女加賀。近衛基実・松殿基房は異母兄にあたり、天台座主慈円は同母弟にあたる。 藤原5摂家の1つの九条家の始祖。月輪殿・法性寺殿と呼ばれた。また、娘宜秋門院任子を後鳥羽天皇の中宮とし、兼実自身も平氏の滅亡後、源頼朝の信頼を得て摂政関白となるなど、政治の中央にいたことがうかがえる。 1164年(長寛2)に16歳で内大臣に任じ、2年後には右大臣となった。平清盛が太政大臣に昇進して六波羅政権を樹立し、平氏の制覇が決定的となった時期である。

後、かれの雌伏がつづくが、86年(文治2)に近衛基通が源頼朝に忌避されて失脚し、代わって38歳の兼実が摂政ならびに藤氏長者となり、長男の良通は内大臣に任じた。 頼朝の支持を得た兼実は、太政大臣から関白に進み、廟堂での地位を確立した。ときに鎌倉幕府の草創期にあたり、頼朝も兼実の見識と人格に期待するところがあったが、後白河法皇の院の勢力にはばまれることが少なくなかった。 しかし法皇の崩後、兼実は征夷大将軍の宣下を行ない、頼朝の念願にこたえた。また兼実は天皇の外戚の地位を望み、(むすめ)の任子を後鳥羽天皇の中宮とした。 宜秋門院(ぎしゅうもんいん)である。しかし皇子の誕生をみぬうちに、土御門通親らの謀略により関白を停められ、権勢の座をしりぞいた。96年(建久7)のことであり、ときに兼実は48歳であった。

兼実は、文治4(1188)年に長男の内大臣良通を若くして急死したことに無常を感じ、兼実の悲歎は深く、「今この喪に遭う、誠にこれ家の尽くるなり、運の拙きなり、惜みてもなお惜しむべく、悲しみてもなお悲しむべし、言語の及ぶところにあらず、筆端の記すべきにあらず、今においては、永く一生の希望を絶ち、ひとえに9品の託生を期す。」と日記に記している。

法然上人との出会いは、その翌89年(同5)8月1日から上人を自邸へ招き法文語や往生業について談じるようになったのが機縁といわれている。

法然が唱えた専修念仏についての風評は、すでに京中にひろまっており、傷心の兼実は法然に会い、浄土念仏の法文を聞くことを願ったのであろう。法然の人柄は兼実に感銘をあたえたようであり、以後、同年8月7日および8日、90年(建久1)7月21日および23日、91年(同2)7月28日、同8月19日および21日、同10月6日、92年(同3)8月7日および8日、97年(同8)3月20日に、法然は招かれて兼実に授戒している。宜秋門院も91年(建久2)9月29日に、また兼実の女房も、1200年(正治2)9月30日、同10月1日および2日に、それぞれ法然から受戒しており、法然は兼実一家に迎えられている。その後、宜秋門院は法然を戒師として出家し、02年(建仁2)には兼実も月輪殿に法然を請うて出家した。兼実と法然との間は親密さを加えており、建永の法難にさいしては、法然らの救解に画策するところがあったが、成功をみなかった。

その後の法然上人に対する兼実の傾倒ぶりはいちじるしく、自邸に招き戒を受けること10数回。上人は1人の帰依者に対してばかり熱心にしては良くないとの思いからか、平素は訪問をひかえるようになった。 しかし病気だからきてほしいと偽ってまで招いていたという。

他にも、父忠通の忌日法要では、実弟で天台座主ともなった慈円よりも上座にしたり、月輪殿の造営では特別に法然上人の休息所としての一室を設け、上人が来訪の折には裸足で出迎えた、との逸話もある。

また、『選択本願念仏集』も兼実の懇請により述作されたものである。 兼実は建仁2(1202)年、法然上人を戒師として出家して円証と名乗っている。そして京都愛宕山の月輪寺に隠棲したとされているが、ここにも上人を招き、教えを受けたとされる。 ちなみに現在浄土宗の宗歌となっている「つきかげ」、

月かげのいたらぬさとはなけれどもながむる人の心にぞすむは、法然上人が月輪寺を訪れた際に詠まれたものである。

また、法然上人の土佐国(現高知県)、への配流に際しては、領国の讃岐国(現香川県)への変更に力を尽くした。しかし、その配流そのものを止められなかった心痛からか、その死期を早める結果となりその1カ月後07年(建永2)4月に、逝去している。

兼実には1164年より約40年にわたる日記『玉葉』があり、当時の政情を知る上で貴重な資料となっている。 ただし『玉葉』は、この前後の記事に脱漏が多くあり、断定はできないが、前年の良通との死別が、兼実を法然に接近せしめた要因であったとも考えられる。

参考田村圓蹟法然上人伝の研究』浄土宗新聞平成12年11・12月号記載