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仏教影絵ばなし「法然さま」

登場人物

影絵:法然上人    影絵:勢至丸 勢至丸(せいしまる)/ 法然上人
法然上人について
影絵:漆間時国漆間時国(うるまのときくに)
1098年頃〜1141(保延7)年
勢至丸の父、美作国(みまさかのくに)久米南条稲岡庄の人。久米郡の押領使。
『法然上人絵伝(国宝)』によれば、源光の後胤式部太郎源年と久米の押領使神戸大夫漆元国の女の子盛行六代の子孫に当たるといわれるが諸説多い。
1133(長承2)年、夫人秦氏との間に勢至丸(後の法然上人)をもうけた。
1141(保延7)年、稲岡荘の領所明石定明の夜襲をうけ、そのときの傷がもとで落命。臨終に子勢至丸に復讐の無益であることをさとし、出家するように遺言したといわれる。
影絵:秦氏秦氏(はたうじ)
生没不明
法然上人の母、秦氏の祖は仁徳朝阿知使主が率いた漢民で、技術にすぐれ綾錦(あや)の姓を賜った。このとき秦の一族は綾錦の長となり、部民を率いて美作国久米郡に移った。法然上人の母はその一族から出た人といわれる。(浄土宗大辞典より)

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影絵:明石源内武者定明 明石源内武者定明(あかしげんないむしゃさだあきら)
生没不明(12世紀中頃)
美作国久米南条稲岡荘の庄官(預所)。法然上人の父を殺害し、上人の出家の動機を作った人物として知られる。
『法然上人絵伝(国宝)』によれば、伯耆守、源長明の長男。1141(保延7)年法然の父、漆間時国を夜襲し傷死させたが、このとき法然の射た矢が眉間にあたり失踪した。この事件をきっかけに法然は菩提寺の観覚上人にひきとられたという。(浄土宗大辞典より)
影絵:観覚上人 観覚(かんがく)上人
生没不明(12世紀中頃)
智鏡房・観覚得業「ひさしの得業」ともいう。法然上人の叔父であり、入門の師。美作の人。菩提寺(岡山県勝田郡奈義町)院主。出家して比叡山に登り天台を学び、また南都へ行き法相を学んで得業となる。さらに真言宗の相伝をうけた。
法然の才能の優れているのを見ぬいて母に説いて比叡山に上らせた人。(浄土宗大辞典より)
影絵:源光法師 源光(げんこう)法師
生没不明(12世紀中頃)
持宝(法)房。比叡山西塔北谷の学僧と伝えられる。
法然上人の比叡山最初の師という。これは法然諸伝記の伝えるところであるが、天台比叡山の文献には見出せない。観覚との知り合い関係を証するものもない。(浄土宗大辞典より)
影絵:皇円阿闍梨 皇円(こうえん)阿闍梨
?〜1169(嘉応元)年
12世紀中ごろの天台宗の学僧。法然上人15歳時の師。
藤原重兼の長子で俗に肥後の阿闍梨という。比叡山で恵心流学者椙生皇覚に師事し顕密の学を受ける。延暦寺東塔西谷の功徳院に居住して天台をはじめ諸宗学を講ずる。
法然上人も15歳にして彼の門に入る。(浄土宗大辞典より)

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影絵:叡空上人 叡空(えいくう)上人
生没不明(12世紀中頃)
法然上人受戒の師。慈眼房という。良忍に師事し、円頓戒、融通念仏、如法経(経文書写)の法則などを伝え、円頓戒ではとくに黒谷流の戒師として名高い。
1150(久安6年)秋、法然が入門した。法然に円頓戒の奥義、浄土教などを授けたが、戒体論や観仏・称名の優劣論をめぐって意見の相違があった。しかし叡空は晩年本尊・聖教・坊舎などをことごとく法然に譲っている。(浄土宗大辞典より)
影絵:善導大師 善導(ぜんどう)大師
613年〜681年
法然上人によって「偏依(へんね)善導」といわれたその人で、法然上人の夢の中に現われ対面されたと言われ、浄土五祖中の第三位。
すなわち、曇鸞・道綽の流れをくむ唐代中国浄土教の大成者。各地に法を求め、師をたずねて求道の遍歴をかさねる間、「観無量寿経」を得て生死解脱の要門とした。(浄土宗大辞典より)
影絵:阿波介 阿波介(あわのすけ)→法然の弟子、陰陽師
生没不明(12世紀末中頃)
法然上人に帰依した信者。京都伏見に住した陰陽師。7人の妻を持ち、酒色におぼれた悪業をなすことをつねとしていた貪欲非道の者だったという。その後、法然上人に出会い、蓄えた財産を7人の妻に分け与えて出家した。
ある時播磨国(兵庫県)に向う途中道に迷い、現世の旅路ですら先達(せんだつ)が必要である。まして後生浄土の道には善知識が必要であることを感じ、道心をおこし法然に帰依した。以後法然につねに従って念仏をとなえた。彼はつねに108の念珠2連をもち、1連で念仏し1連で数をとったという。これが現在浄土宗で用いている2連の日課数珠は阿波介の考案といわれる。
ある時、法然上人が「私と阿波介の念仏のどちらが勝っているか」と弟子の聖光房に尋ねると「同じはずがありません」と聖光房。すると「日ごろ何を学んでいるのか。助けたまえと申す念仏に勝劣があるわけがない」と語ったという。
晩年、平泉金色堂に行き端座合掌し念仏を唱えながら往生したという。

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影絵:平 重衡 熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)
1141年〜1207年
源平合戦において勇名をはせた鎌倉武士。のちに法然上人の門下となり熱心な念仏信者として著名。蓮生房・法力房などと号した。俗姓は平氏。武蔵国(埼玉県)熊谷の住人熊谷次郎直貞の子、直家の父。親子共に源頼朝の部下として数次の源平合戦において手柄をたて鎌倉幕府の創設に尽力す。1192年(建久3)久下直光との所領争いに敗れ、自ら髪を断ち、上洛して安居院の澄憲のすすめにより法然に師事した。法然の易行専修念仏の教えを聞いて直実深く感ずるところありて常に法然の側近に随従し、ひたすら念仏の行に励んだ。行住坐臥に西方を崇敬し、背を向けることを避けた。とくに直実が法然と分れ、郷里関東熊谷に下るとき、逆馬にて下向した逸話は直実の武将としての実直さと念仏信仰の熱烈さをよく物語っている。熊谷に帰ってからも浄業怠ることはなかった。07年(建永2)9月4日往生した。なお、宇都宮の蓮生房(れんしょうぼう)と区分して、熊谷の蓮生房(れんせいぼう)と呼ばれている。(浄土宗大辞典より)
影絵:顕真(けんしん)法印
顕真(けんしん)法印
1130年〜1192年(大治5年〜建久3年)
天台宗。恵心流。美作守藤原顕能の子。
幼いころ比叡山に登り、顕密の学をうけ、僧都に任ぜられ、名声が高かったが、43歳、1173年(承安3)隠遁の志を発して、洛北大原にこもった。86年(文治2)秋、法然上人を勝林院に招き、諸宗の碩学を集めてともに法然の専修念仏にもとづく浄土教義を問うた。かれは深くその教えに感じ余行をなげうって念仏三昧に入った。
90年(文治6)勅により天台座主に任ぜられ、固辞したが許されず、ついで最勝会の証義をつとめ権僧正に任ぜられた。(浄土宗大辞典より)
影絵:重源
重源(ちょうげん)
1121年〜1206年(保安2年〜建永元年)
鎌倉の勧進僧。俊乗坊重源。
法然上人の推挙により平重衡の焼き討ちで焼失していた東大寺大仏造営の勧進職(総責任者)として、1185年(文治元年)には大仏殿落慶の大事業をなした僧。
重源は密教の僧であったが、後に深く浄土教に帰依し念仏の実践者となった。67年(仁安2年)入宋し、天台山や阿育王山を歴訪して仏教を学び、浄土の五祖(曇鸞・道綽・善導・懐感・少康)の絵像を持ち帰り、上人に献呈したといわれています。はやくから上人と交流があり、「大原談義」の折も勝林院にかけつけて上人の考えを味わわれました。91年(建久2年)には造営中の大仏殿に法然上人を招いて「浄土三部経」の講義を依頼するなど、南都に在りながら念仏の教えの大切さをよく理解した人として有名。
指図堂は大仏殿の西にあり、ここで大仏殿再建のとき、重源が工事の指揮をしたところと伝えられ、堂内には法然上人の絵像が祀られています。
(ビジュアル法然上人より)

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影絵:明遍
明遍(みょうへん)
1142年〜1224年(康治元年〜貞応3年)
法然上人門下に帰入した三論宗の碩学。高野僧都、高野聖と称される。
藤原通憲(信西入道)の末子。幼少より東大寺東南院に入り、三論を研究し、密教をも兼学した。
専修念仏帰入の時期は明白ではないが、初めて法然上人に対面した際、散心念仏について問答した記事が残されている。帰浄ののちは名を空阿と改め、ひとえに宗祖を仰信した。法然の滅後、自筆の『三昧発得記』を勢観房より披見されて随喜の涙を流したといい、また宗祖の遺骨を首にかけて称名念仏を励み、百万遍念仏の行者であったとも伝えられる。(浄土宗大辞典より)
影絵:後白河法皇 後白河法皇(ごしらかわほうおう)
念仏のみ教えを受け継いだ人々:後白河上皇
影絵:範宴(はんえん)のちの親鸞聖人 範宴(はんえん)のちの親鸞聖人
1173年〜1262年(承安3年〜弘長2年)
浄土真宗の開祖。初名を範宴・綽空・善長と称し、愚禿を姓とする。1876(明治9)見真大師と諡される。京都の出身、父は皇大后大進日野有範といわれる。幼くして父母をうしない、比叡山に登り出家し堂僧となる。1201年(建仁元)正月、29歳の時、深く出離の要道を求め、京都六角堂に百日参籠し、95日の暁、聖徳太子の文の示現にあずかって、法然上人の門に入る。04年(元久元)延暦寺の専修念仏に対する非難をなだめるために法然以下「七箇条起請文」に連署し、親鸞も綽空の名でこれに加わる。翌05年(元久2)法然の許しを得て『選択集』を書写し、法然の真影を図画している。07年(建永2)2月上旬興福寺などの告訴によって、法然以下配流に処せられ、親鸞も越後国に流される。
その後求道上の苦悶をしながらも、念仏の布教を図る。24年(元仁元)『教行信証』6巻を著したといわれる。62年(弘長2)11月28日、90歳をもって入寂した。
親鸞は「機に真実無し」という実践的な立場から、如来の他力廻向の救済を信知し、絶対他力の念仏を強調した。著者の中でも、彼の言葉を弟子の唯円が記したといわれる『歎異抄』が最も有名である。(浄土宗大辞典より)

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影絵:九条兼実 九条兼実(くじょうかねざね)
1149年〜1207年(久安5年〜承元元年)
関白藤原忠通の第3子。藤原五摂家の九条家の始祖。月輪殿・法性院と呼ばれた。
86年(文治2)に近衛基通が源頼朝に忌避されて失脚し、代わって38歳の兼実が摂政ならびに藤氏長者となり、長男の良通は内大臣に任じた。頼朝の支持を得た兼実は、太政大臣から関白に進み、廟堂での地位を確立した。また、兼実は天皇の外戚の地位を望み、むすめの任子を後鳥羽天皇の中宮とした。宜秋門院である。しかし皇子の誕生をみぬうちに、土御門通親らの謀略により関白を停められ、権勢の座をしりぞいた。ときに兼実は48歳であった。さて、88年(文治4年)に長男の内大臣良通が急死した。兼実の悲嘆は深く、翌89年(同5年)に兼実は法然上人を請うて、法文語や往生業について談じた。これが法然との最初の出会いである。前年の良通との死別が、兼実を法然に接近せしめた要因であったとも考えられる。法然が唱えた専修念仏についての風評は、すでに京中にひろまっており、傷心の兼実は法然に会い、浄土念仏の法門を聞くことを願ったのであろう。法然の人柄は兼実に感銘をあたえたようであり、以後兼実、宜秋門院、兼実の女房はそれぞれ法然から受戒しており、法然は兼実一家に迎えられている。その後、宜秋門院は法然を戒師として出家し、続いて兼実も出家した。兼実と法然との間は親密さを加えており、建永の法難に際しては、救解に画策するところがあったが、成功をみなかった。しかし法然の四国配流は、兼実を心痛せしめ、その死期を早める結果となった。法然が京都を離れて一ヶ月後の、07年(建永2)4月に兼実は生涯を閉じた。(浄土宗大辞典より)
影絵:式子内親王 式子内親王(しょくしないしんのう)
念仏のみ教えを受け継いだ人々:式子内親王
影絵:住蓮 住蓮(じゅうれん)
念仏のみ教えを受け継いだ人々:住蓮
影絵:安楽房遵西 安楽房遵西(あんらくぼうじゅんさい)
念仏のみ教えを受け継いだ人々:安楽房遵西

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影絵:後鳥羽上皇 後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)
1180年〜1239年(治承4年〜延応元年)
82代天皇。諱は尊成、高倉天皇第四子。母は七条院藤原殖子。1183年(寿永2年)安徳天皇が平氏とともに都落ちののち、後白河上皇の院宣により践祚。1193年(建久9年)土御門天皇に譲位して院政を行う。1221年(承久3年)北条義時追討の院宣を下したが失敗し、同年7月落飾し法名良然と号し隠岐国へ遷幸、ここで寂した。(浄土宗大辞典より)
影絵:松虫
影絵:鈴虫
松虫・鈴虫(まつむし・すずむし)
後鳥羽上皇に仕えた小御所の女房。1206年(建永元年)12月9日上皇が紀州熊野へ参詣し、その不在中に松虫・鈴虫たちが法然上人の門弟住蓮・安楽の行っていた獅子谷の六時礼讃念仏会に参詣し、帰依渇仰のあまり剃髪出家して尼になった。上皇が帰洛して、このことを聞き憤怒して、住蓮・安楽は死罪、法然上人は四国遠流になった。これは奈良興福寺僧徒の弾圧運動も加わったからである。尼になった二女は、のち広島県尾道市瀬戸田町御寺の光明三昧院にいた後白河法皇の皇女如念尼に仕え、尼たちは法然上人を四国の流罪から赦免された帰途にこの寺に迎えて説法を受けたと伝える。同寺は真言宗であるが、初期法然上人像を安置していた。しかし、黒谷金戒光明寺が焼失したためこの法然上人木像を迎え、新像を安置した。現在、如念尼の遺髪塔、松虫(妙智)・鈴虫(妙貞)二女などの五輪塔がある。(浄土宗大辞典より)
影絵:源智 源智(げんち)
1183年〜1238年(治承7年〜歴仁元年)
勢観房あるいは賀茂(かもの)上人という。 知恩院および知恩寺二世。平師盛の子。平家没落のとき、父は戦死し、母とともに源氏の探索からのがれ、1195年(建久6年)13歳のとき法然上人の室に入ったが、平家の子孫であるため身の安全を慮って慈円のもとで出家得度した。のち、法然上人の座下に帰り浄土の教えをうけて以来、18年間随侍し上人の臨末に請うて浄土宗の奥義を書いたいわゆる『一枚起請文』を授けられ、その他円頓戒の道具、本尊、大谷 の坊舎、聖教などを譲られた。弟子に蓮寂・浄信・宿蓮があり、この流を紫野門徒という。著書に『選択要決』1巻、『御臨終日記』(醍醐本所収)、『一期物語』(同上)がある。(浄土宗大辞典より)
聖光房弁長(しょうこうぼうべんちょう)
念仏のみ教えを受け継いだ人々:聖光房弁長
良忠上人(りょうちゅうしょうにん)
念仏のみ教えを受け継いだ人々:良忠上人