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国内開教師座談会

タイトル

対談写真

開教というとハワイや北・南米などの海外開教を思い浮かべる方も多いと思うが、日本国内での開教も活発に行われている。
浄土宗寺院の少ない地域での新寺建立、長く住職が不在で荒廃した寺院の再興など、ケースはさまざまだが、浄土宗では特に志を立て開教活動に取り組む僧侶を国内開教師とし認定し支援を行っている。
浄土宗東京事務所で開かれた国内開教師座談会の模様から浄土宗の未来を開く、その歩みと今後を紹介します。

出席者(五十音順)

小川寧山師 埼玉県鳩山町・先光寺
小川寧山師
昭和31年埼玉県生まれ。
東京都立北野高等学校教論。
平成2年浄土宗教師。 先光寺を設立。
笠原泰淳師 東京都稲城市・林海庵
笠原泰淳師
昭和33年東京都生まれ。
仏教情報センターテレホン相談員。林海庵を設立。
川野勲雄師 鹿児島県川内市・宅満寺
川野勲雄師
昭和4年鹿児島生まれ。
川内市市議会議員。行政書士ほか。
昭和62年浄土宗教師。 宅満寺を設立。
佐藤宗雲師 山形県鶴岡市・藤澤寺
佐藤宗雲師
昭和22年山形県生まれ。
NPO山形人権フォーラム専務理事。裁判所調停委員、司法書士。
平成8年浄土宗教師。藤澤寺を設立。
杉森隆志師 鹿児島県屋久島・玄清寺別院慶照院
杉森隆志師
昭和31年大阪府生まれ。
玄清寺住職。若宮保育園理事長。
昭和54年浄土宗教師。慶照院を玄清寺(大阪)別院として設立。
谷中信巌師 愛知県豊橋市・察順院
谷中信巌師
昭和21年東京生まれ。
三河教区布教師会理事。昭和50年浄土宗教師。不活動寺院であった察順院を再興。
武田道生師 司会 浄土宗総合研究所専任研究員 武田道生師

浄土宗教師となったのは

――― お集まりいただいた六名のうち、五名の方が寺院生まれでないのですが、はじめにどのようなきかっけで、浄土宗教師(僧階という資格をもった僧侶)になったのかを教えていただきたいのですが。
川野 長く史学を勉強したいと思っており、子供が成長したので、文字通り五十の手習いで佛教大学の史学科に入学しました。そこでは仏教学関係の講座も多く、受けているうちに魅せられ、史学を卒業し、そのまま仏教学科三年に編入、昭和六十一年に加行を成満いたしました。実は、大学に入る前に一年間、高校の通信教育課程を受けたのですが、そこで法然上人の偉大さについて感銘も受けておりました。
谷中 宅満寺全景私は学校を出て就職したのですが、殺伐な生活をしていたので、心のゆとりが欲しいと、菩提寺に茶道を習いに訪ねました。茶室のお香の香りと静けさ、寺の中は別世界のようでした。すっかりお寺が気に入り、出入りをするようになったんです。
そのうち住職から「得度を受けてみないか」と誘われ、軽い気持ちで受けました。もともと、宗教に興味もあったので、もう少し勉強をしたいと、少僧都養成講座をうけて僧籍をとったんです。
 その後、会社の同僚の突然の死に出会い、まだ若い奥さんと幼い子どもに何の励ましも慰めの言葉も出ず、改めて僧侶の勉強をしたいと、職を辞して菩提寺で再び勉強を始めた次第です。
笠原 二十歳のころ本で仏教に出会い、初めは禅に惹かれ、身心を鍛えるということにずっと関心を持っていました。ヨーガも習いました。しかし、そのうち人様と関わりをもってやっていきたいとの気持ちが強くなってきました。しかし、自分を鍛えるということと、人様とのつながりということを考えると限界があるなあ、と感じておりました。そんなとき浄土宗の本を読み、法然上人の教えが琴線に触れました。他力の救い、易行のお念仏で救われる。仏教が目指している最後のところまで、念仏でお導きいただけるという教えに、あっ、これは自分にまったく欠けているものだ、今まで自分の力によって行い、その報いが自分にいただけるという思いでやってきたので、この他力という考えが自分の中にはまったくなかったんです。逆に非常に魅力を感じたわけなんです。
 で、私はこのときサラリーマンでしたが、父が病気で余命いくばくもないという事態に遭遇しました。そこで思ったのは、定年まで勤め、それから第二の人生で宗教なり、哲学なり、思う分野に力をそそごうと考えても、これは身体がきかなくなる可能性があるな。「やるなら今だ」と、職を辞し、三十一歳のとき、菩提寺に弟子入りをし、佛教大学の通信で勉強を始めました。
小川 父親たちは戦争体験の最後の年代で、子供のころから、その話を聞いていました。大学を卒業し教員になったとき、沖縄で学会があり、あちこちを歩いて、初めて戦争というものが、現在でもまだ生きているというショックを受けました。
 そのとき、何か供養をしたいと思ったのですが、お経のひとつも読むことができない。そこで調べましたら、佛教大学に仕事を続けながらも僧侶の資格が取れるというところを見つけ、近くのお寺に事情を説明しましたら、師僧になってくださいました。
 しかし迷いもありました。禅にはイメージがあったのですが、浄土宗とはどういうものなのか。
 そんなとき、同僚のお兄さんが臨済宗の高僧だったもので相談をいたしました。「浄土宗、念仏というものをやるんだけど、どうなんだろうか」と。すると、「自分は長いあいだ、僧坊に籠(こも)っていたが、自分の力だけではどうしようもないという限界をいつも感じている。お念仏は大事だからよく勉強しなさい」と言われまして、まあ、偶然なのですが、浄土宗でよかったなと思いました。それで一生懸命して、加行までたどりついたというのが現状です。
佐藤 私の場合、幼児体験があるんです。自宅の前に大きな寺があって、しょっちゅう葬儀や法要をやっていたんです。そのときのガーンとなるカネの音、そして、垣間見るお坊さんの動きに、えも知れぬ感激を覚えたんです。それが強烈な体験として残っているような気がします。
 長じて、公務員になったのですが、二十年あまり家を留守にし、家族と離れ他県などに単身赴任しましたので、仕事から帰ってくると一人でご飯を食べて、一人で寝るという生活が長く続きました。そこで暇な時間を利用し色々な仏教書を読んでいるうちに、少し勉強してみようと思うようになり、佛教大学の通信教育で、勉強をしたというわけなんです。
――― 佛教大学の通信教育というのが、在家の方が僧侶になるひとつの窓口、方向性になっているようですね。

寺を設立し国内開教師に

――― 次に浄土宗教師になるのと、開教使となってご自分で寺院を建立するのとはまったく別のことだと思うのですが、なぜ、寺院を建立されようとお思いになられたのかを、お聞きしたいのですが。
川野 宅満寺全景もともと鹿児島県は浄土宗の寺院が少のうございます。ご指導をいただいた上人から、「せっかく僧侶になったんだから、寺を川内(せんだい)市に建立しなさい。大企業があって他県の人が多いから、そういう人を対象とする寺を開いたらどうか」という助言をいただきました。私も「そうしたいなあ」という考えを持っておりました。幸いにして私と家内の退職金を合わせて、ほとんど自力で建てることができました。
杉森 玄清寺別院慶照院の庫裏私の場合、寺の生まれなのですが、家内の母が屋久島生まれで、結婚する前から屋久島にお寺を建てたいという思いを持っていました。

お寺を建てるには土地の確保など、いろいろ大変なのですが、幸い義母の実家が土地を持っておりました。見に行くと、非常にいい所でしたし、島の方々の人間性にも感動しました。島全体が大自然の宝庫でもあり、これはぜひお寺を建て、布教活動をしたいという思いがわいてきました。島は人口が約一万三千、法華宗と浄土真宗の二宗のお寺が合わせて九カ寺、信仰は神道の強い場所で、信者さんが集まるかなと心配したのですが、義母の親戚関係の方々が「協力していく」と、おっしゃってくださいましたので、本寺である大阪の玄清寺の別院として建てることを決意いたしました。
笠原 林海庵仏間私は、浄土宗東京事務所の方から国内開教のお話、「やりがいのある仕事だから、やってみないか」、というお誘いをいただき、あっ、これはよい話だ、と思ったのがきっかけです。しかし、決断する背景には、手伝いでやってきた法務(法要)とか、ボランティアなど、色々する中で、自分自身に何か、もうちょっと、使命というと大げさかもしれませんけども、本当に全ての力をそそいでがんばるという場が自分には必要なんじゃないか、という感じをずっと持ってきておりました。それとお声をお掛けいただいたことがカチッと噛み合ったように思っています。
小川 私は、加行が終わってから、そのまま髪を短くしていました。勤務が定時制高校なものですから、午前中は子供を散歩させたりしていますので、近所の方から「その髪は?」と、聞かれますので僧侶になったのですと話すようになったんです。すると、「親を抱えているけれど、こういうことはどうなんだろう」とか、仏事のことなどをいろいろ尋ねられたり、お年寄りが訪ねてくるようになりました。そのうち、お茶を飲める場所が欲しいという方や、寄付をいただくようなこともありました。でも、それをストックしておいても仕方がありませんし、どうしようかといろいろ悩んでいたところに、突然、区画整理事業がわきあがってきたんです。それで、新しく家を作るときに、お寺ではないけれど、お参りできる場所、みんなが集まれる場所を作って、いただいたお金に自分たちのものを足して生かそうと考えたわけなんです。

不活動寺院の再興も重要

――― 佐藤上人の場合はどのよな状況でしたか
佐藤 藤澤寺山門と本堂私の場合、加行を終え、赴任先や自宅で毎日、カネや木魚をたたいていたんです。苦情はなかったんですが、近所から奇異の目で見られていたような気がしていたんです。当時はオウム事件の影響で、宗教に対する社会の見方が変わった時期だったからかも知れません。私は僧侶としての時間を過ごすに、その拠(よ)り所となるにふさわしい場所、景観というものが必要だと思っていたんです。

そう思っていたころ、鶴岡市の郊外の藤沢という地域を、たまたま通りかかったことがあり、そのとき、兄嫁が、「こんなところに寺を建てられたらいいね」と言ったんです。ちょうど、そこに知人が山を持っていたはずだと気づき、翌日、家内と二人で訪ね、「このへんに寺を建てたい。少し山を分けていただけませんか」と言いますと、「ああ、いいよ」って。それで千坪ですけど山を格安で譲っていただいたわけなんです。
谷中 私は、長いあいだ住職が不在の、いわゆる不活動寺院に入ったというのが実情です。浄土宗で、不活動寺院でも住職が入れば再建できそうな寺をピックアップしていまして、そのうちのひとつを私にやってみないかというお話をいただき、そこで入らせていただきました。

場所は豊橋駅に近い、いいところですが、寺のある一角だけ戦争で焼けずに、昔のまま残っているところでした。尼僧さんが高齢で亡くなり、寺の後を継ぐ人も無く、檀家が一軒も無いため伽藍(がらん)はあったのですが、荒れ放題で、ネコが出入りできる壁の穴が二カ所あり、ねずみの出入り口はいたるところに開いている状態でした。

建物の大部分に修理が必要でして、自分のできるところから材料を買ってきて、コツコツと直し、お金が貯まったら職人さんに直してもらうという具合に、少しずつ修理を重ねました。

現在は皆さんの協力により、一通りの修理は終わりました。
――― 谷中上人のように不活動寺院の再興も国内開教のひとつになるわけですね。それと佐藤上人のように理想とする場所に建てられたということですね。笠原上人の場合は、どうして稲城市に決められたんですか。
笠原 「国内開教情報システム」、浄土宗総合研究所が作られたそうですが、全国の人口分布や今後の動態、各地の寺院分布、そのうち浄土宗の寺院がいくつあるなど、色々なデータがあるから見においでということになりました。前々から東京の多摩地区に寺院が不足していることをうかがっていましたから、そこにあればいいなと思っていたのですが、浮かびあがった地域が青梅とか八王子、稲城、小平でした。私も自分で、実業界の方が集めた「盛衰予測」という、例えば店を出すとか事業を展開するときにあたって使われると思われるデータと、開教システムから浮かびあがったデータとつきあわせ、最終的に候補地を、多摩市・稲城市と、もうちょっと北にあがった地域に選んだのです。さっそく家内と多摩市・稲城市をまわってみました。で、いい場所だな、というのが第一印象でした。自然も豊かです。確かに新興住宅地ですので、信仰心という観点からいうと、どの程度の方が心をむけてくださるのかという不安はあるけれども、しかし、そうした地域でこそ、がんばってみなくてはいけないと、仏間を置ける間取りの部屋を借りたという経緯です。
――― 非常に緻密な調査の上で決められたということですね。
小川上人の場合はかなりの年月、十年ほどで現在の状況ができあがっているそうですが、その間の状況を教えてください。
小川 宅満寺全景区画整備事業が進み、本堂兼住宅ですが、金銭的にそちらが賄えたのは事実です。ただ、ご本尊や仏具は高く、とても買えない。ただ、ホールのようなものがあっただけでした。どうしたらと思っていましたら、近隣の真言宗のお寺の住職が、「寺に阿弥陀様が二体あるから、そういうことでしたら持っていっていいですよ」と、おっしゃってくださったんです。聞きますと、新潟の廃寺になった浄土真宗のお寺さんの仏像をゆずりうけたものだそうでした。わざわざ、傷んでいたのを修復して、光背も船形に直してくださいました。相当のお金をかけて金箔もはってくださいました。新潟の廃寺になったところのお檀家さんも、「いいところに行った」ということで、訪ねたいとおっしゃってくれましてね。

それと仏具の方は、教区、教化団の方々から、余っているものや、少し修理すれば使えるもの等をと、色々くださいまして、本堂は小さいのですがカネや木魚は増上寺の本堂に匹敵するぐらい不釣合いのものが入っている状態なんです。

地域の人と文化背景

――― 今まで寺院のなかったところに新しくご住職がおいでになられた、地域住民の反応というか関心についてうかがいたいのですが、まず、都市部で開教なさっている笠原上人にうかがいたいのですが。
笠原 今、賃貸で入っているところは居住専用で、「浄土宗林海庵」という看板は出していません。「林海庵笠原」だけで、近所のある方は、「お茶でも教えていらっしゃるのですか」(笑)といわれますので、「小さなお寺です」とご説明はするのですが、そうして聞いてこられる方はそれほど多くはないですね。関心があるんでしょうが、どういうふうに受け取られているのかはよくわかりません。

ただ、自治会の方が勧誘にみえ、「実は浄土宗の僧侶でございます」といいましたら、「今度、ぜひ自治会の役員になって欲しい」、「衆生済度のためにぜひがんばってくれ」(笑)といわれたんですが。まあ、そんな反応もありましたが、全体としては少ないと思います。
――― 反発は
笠原 それは一回も感じたことはないですね。ただ、今のところ、お客様の数も少ないので、これが目立ってくるとどんな反応がでてくるか未知数ですね。
――― 地域密着という屋久島の場合はいかがですか。
杉森 地域密着ということですが、屋久島は一周百キロほどの島で、そこに集落が二十余りあるんですが、慶照院の周りにはあまり家がなく、隣りに数軒家があって、そこから百メートルほど離れたところに、ぽつぽつと家があるという程度です。ですから隣り同士の付き合いというのは少なく、交通機関も車中心ですから、地域住民の方との付き合いも今のところあまりありません。
――― 新しい宗教が入ってきた反発とかありますか。
杉森 それはないですね。浄土宗のお寺ができると村の人に言っても、「はぁ」というほどで、そんなに抵抗もなく、別にどうということもないですね。

義母の親戚もたくさんいまして、他の寺の檀家さんであっても、施餓鬼、毎年八月に行うのですが十人から二十人ほどが来られます。そのときに少し話をしたり、大阪から誰かに来てもらって話をしてもらったりしています。
谷中 私の場合は、とにかく荒れている寺に入ったものですから、周りのお寺さんもどうにかして欲しいということがありまして、受け入れはよかったですね。近所の方も先々代ですが尼僧さんが、一生懸命活動していたお寺ですから、荒れ放題になって皆さん心配していたんです。私が入ったことで、皆さん協力的にしていただだいています。

念仏会も毎月二回やっているんですが、そのときも皆さん来ていただきます。じゃあ、浄土宗の信者さん何人いるかといえば、三十人こられても、たいてい二、三人ぐらいなんですね。他宗の方が大部分、近隣の方なんです。
――― 佐藤上人の場合はいかがですか。
佐藤 鶴岡の藤沢には、曹洞宗の寺院が二つあるのですが、町内会長さんは、そのうちのひとつの総代さんをされているんです。私のために動いてくださった師僧と、そのお気持ちを汲み取ってくださった鶴岡組の方々、教区長さんのご理解により、建立の環境が整い、建築にかかれるようになったころ、町内会長さんのお宅にご挨拶にうかがったわけです。

浄土宗は、庄内地方では実は絶大な信用がある宗派なんです。旧庄内藩主の酒井のお殿様が浄土宗で、菩提寺も鶴岡にあるんです。旧藩の家中のほとんどが浄土宗の檀家で、今に至っています。ですから、浄土宗ですと言うと、安心してくれまして、会長さんはじめ役員の皆さんから「がんばって」と激励されました。

寺ができてからは、行事があると会長さん自ら新そばを打って皆にご馳走してくださるなど、ご支援もいただいているんです。
――― なるほど、地方ではこうだろうという概念は捨てなくてはいけないんですね。文化的な背景というものも大切な問題となるということでしょう。
佐藤 川野

寺開放し癒しの場に(佐藤)
仏式で行事をとPR(川野)

――― どうして浄土宗教師になられたのか、なぜ寺院を作られたかをうかがいましたが、次に皆さん方が作られた寺院でどのような活動をされているのかを、うかがいたいと思います。
谷中 寺を持ちたいという動機が、「信者さんと一緒にお念仏する場所が欲しい」ということで、まず念仏会を始めました。すると、うれしいことに、近所のお婆さんたちが遊びに来てくれるようになりました。地蔵盆には子どもたちがおおぜい集まってくれて、近所の方に手伝ってもらい、ゲーム、紙芝居をし、近くのお寺の奥さんとその友だちに芝居をしてもらっています。

それから行事ではありませんが、寺の建物を直すことと、信者さんを増やすことが、私の目標です。建物はほぼ完成しました。信者、檀家さんは少しずつですが増えてきました。
佐藤 私のところでは、開山当初から毎週「日曜勤行会」をやっています。参加者は毎回数人から五、六人で、年齢もまちまちです。朝九時から一時間ほどで、主にお経を読誦するのですが、終わるとお茶を飲みながら座談するんです。冬の寒いときには誰も来ない日もありますが、気にしないで続けています。

それと、「藤澤寺人生悠遊講座」というのを、二、三カ月に一度開いています。毎回四十人以上の人が来ます。浄土教の教えを伝える機会と思っているものですから、講師はこれまで師僧や教区長さんにお願いしてきました。今後はできれば組内のご上人にも講師をお願いできればと思っているんです。また、年一回は在家の方で、地元で面白い活動をしている方に講師においでいただいています。

反響はといいますと、私の寺の近くには、このような活動をやっている寺があまり無いようで、それに寺というと葬式や法事以外に縁がないという世間の思い込みもあり、地元の新聞も載せてくれますから、結構、注目を集めているような感じがします。それから私自身も、学校、会社、団体、それに他宗派の研修などに講師として招かれ、月一、二回ほどお話しに出かけています。新米教師ということもあって呼びやすいようなんですね。

実は、鶴岡組では教区長さんの常念寺で十数年前から月一回「やすらぎ講座」が開かれ、金浄寺さんでも「金浄寺ルネッサンス」と題して講演やコンサートをやっているんです。

鶴岡組の浄土宗寺院は、伝道事業については、ずっと以前から先駆的な役割を果たしているわけでして、これは大変なことなんですね。私の寺はこれを真似してやっているだけなんです。
川野 私のところはちょうど六年になります。ほとんど檀家さんはいないのですが、他宗の檀家さんからお葬式などを頼まれることが結構あるんです。それはそこのお寺が非常に高いお布施を強要されるそうで、それを嫌がっていらっしゃる方々なんですね。
――― そのお寺からクレームがくることはありませんか。
川野 いえ、ありません。それに私はそのお寺が悪いと思っていますから。

それと、地鎮式や節分の厄祓いなどをやっています。地鎮式は「仏壇が家にある以上、仏式で行うのが当然なんですよ。明治以前は冠婚葬祭はすべて仏式でやっていましたし、今は全国的に地鎮式を仏式でやるところが増えつつあります」と言ってPRします。新興住宅地ですからかなり依頼者がありますね。

まだまだ、お寺は序の口で、これから何年、生があるか分かりませんが、軌道にのってくればいいなと思っています。
小川 私は教員で、実際、ほとんどその収入で生活していますので、やはり僧侶として割く時間には限度があります。もう少し寺の宣伝をすればいいのでしょうが、相談にみえる方も意外とおり、そういう方のケアといいますか、ゆっくり時間をとりますと、実際、私と家内で手いっぱいのところがあります。

組の寺院からもご理解があり、お檀家さんの兄弟で、新しく檀家になりたい、信徒になりたいという方をご紹介いただきます。せっかく紹介いただきました方ですので、こちらも一生懸命相談にのったり、法務をしたりしていますと、それで一日が過ぎてしまうという状況です。

ただ近隣の方も、新しい寺だから、新しい何か期待というものがうかがえまして、たとえば町の商工会の会長をなさっている方が、寺を使って「自分の人生のようなもの、今までのことを話して一生を終わりたいんだ」という方がおられまして、ご協力もいただけるとのこと、年に数回、文化講演会のようなものを開き、歩んでいきたいと思っています。
笠原 杉森

小人数でお念仏の会(笠原)
自然を生かした教化(杉森)

――― 皆さん、出発時期ですとか現状もさまざまですが、今後はどのように展開をしていかれたいかを教えてください。
笠原 今はマンションですから、おのずと限界があります。たとえば行事を企画して、ここにお集まりくださいというのはちょっと難しいと思います。

ですから、まず考えているのは宣伝活動です。

ご縁をとにかく広げていくなかで、たとえば個々に対応していたご家族の方に集まっていただいて、小人数ですが、一緒にお念仏をおとなえしましょうとか、あるいは、お茶を飲みながら話しましょうといった、自然な形で集いができてくればいいなと思っております。

しかし、はっきりした時期は定めていませんが、ゆくゆくは、自前の場所といいますか、安心してできる場所を確保する必要があると思っています。
佐藤 阿弥陀如来は、他力という真理を啓示されている仏さまだと思うんですね。利己主義が蔓延している現代の世の中は、人間の生活やもろもろが、結局のところ、他力によって成り立っているということが霞んでしまっているわけです。

ですから、その原点に立ち返った活動をしていきたいと思っているんです。

実は知人などから、子どもを二、三日、寺に泊めて教育して欲しいという要望があるんです。それにヒントを得まして、名前を「三日坊主修行」と付けて、年度内にやってみようと考えているんです。

もうひとつは、最近、癒しという言葉をよく耳にするんですが、寺のような荘厳で静かな場所に身を置くことで、清々しい和やかな気持ちになるように思うんですが、私の寺はそういう人のための場、コミュニティーの場として提供したいと願っております。

具体的には、いろんな行事に開放しています。先週は裏千家のある師匠の記念茶会があり、今週は「絵手紙教室」の会場となりました。寺を開放することで寺に人も来てもらえますし、寺に来ていただければ、浄土宗の教えも自然と浸透していくんじゃないかと思っています。
――― 屋久島に大阪の寺の別院という形ではじめられた杉森上人の場合はどうでしょうか。
杉森 最初は泊まる所もなく、本堂を建てたいと思ったのですが資金、敷地の面もあり、とりあえず客殿・庫裏を建てようということになりました。その一部を仮本堂という形にし、阿弥陀さまをお祀りしています。ただ、信仰の中心となる本堂は建てたいなと思っています。

それと現在、留守番の方のみで、常駐の教師がいないということが一番の課題で、私も本寺の玄清寺の住職ですし、保育所もやっていますから、なかなか身動きがとれない。やはり常駐する開教師の育成を考えなくてはならないと思っています。開教師がいつもいることで地域に密着した開教ができると思っています。

また、今後は屋久島の自然環境を生かした活動、たとえば会社研修会や青少年の課外活動などにぜひ活用してもらえたらいいと思っているんです。先ほど佐藤上人から、癒しという言葉が出ましたが、私自身感じるのですが、屋久島は本当に癒される場所なんです。そのあたりを生かしていきたいなと思っています。
谷中信巌師 川野

“往生”の意を伝えたい(谷中)
信頼の人間関係が第一(川野)

――― 国内開教師の皆さまは、志を強くして活動されているわけです。現代の人々に特に念仏の教え、法然上人のみ教えが、なぜ必要なのかをお話しいただきたいのですが。
川野 私はいま叫ばれています生涯学習とか、リカレント教育の一環として、皆さんが法然上人の教えを学習してくださったら非常にありがたいことだと思いますね。

それと私は人間対人間といいますか、色々な相談をうけます。そのときは自分のできるかぎりの知恵を出して皆さんの役に立つように、また、そうすることによって、相手方から信頼をうけます。  私は人間関係が一番大切だと思います。

ともかく、仏教を信仰されている方が大半でございますので、折にふれまして法然上人の教えを皆さんに理解していだくように努力したいと考えています。
谷中 初めに話しましたが、僧侶をやり直そうと思ったきっかけは、友人が亡くなったときに、遺族に何も話せなかったからです。ですから、肉親を亡くし悲しんでいる方々に、「故人は極楽に行っているんだ」と信じていただけるよう話をしております。そして、「和尚さん、うちの息子はお念仏で極楽に行ったんだね」と明るい顔に変わったとき、法然上人の教えを伝えられたんだという思いがします。そういう言葉をこれからも多く聞けるよう、努力していきたいと思います。
杉森 先ほども言いましたが、屋久島の大自然のなかで、自然との共生といいますか、浄土宗二十一世紀劈頭(へきとう)宣言にもありますように、私たちは色々なもののおかげ、色々なものの命をいただいて生きているということを中心に語っていきたいと思っています。日が昇ったら起きて、日が沈んだら寝るというような、人間の原点。生きることは何かということ、お釈迦さまが説かれたことが、屋久島は体験できる場所だと思うんです。そういうことを地域の人たち、来ていただく方に伝えることを教化のひとつの柱にしたいなと思っています。
笠原 先日、ある方から質問をうけたんです。私の話のなかで、「救い」という言葉があったのですが、その方は「今の世の中、リストラ、家庭崩壊、不登校など色々な問題がある。『救い』ってなんですか。お念仏の教えでそれが救えるんですか」というような問いかけをうけました。実はこのときは、他の質問に時間をとられ、お答えできず、その問いが心に残っておりました。

私は思いますに、その答えは「お念仏のなかに救いがありますよ」と口で言うのではなくて、まず、そういった方々の話を聞いてさしあげるということが、とても支えになると思うのです。私自身も迷ったときに、話を聞いていただきながら、そのなかで自分の方向が定まるということが多々あります。話を聞かせていただくなかで、一緒になって感じてさしあげるということが大切だと実感しています。そして、一生懸命お話をうかがったなかで、「じゃ、お念仏をおとなえしましょう」ということで、心と心が通じ合ったお念仏がそこにでてくるのではないかと思っています。そのあたりのことを自分自身一番大切にしてやっています。
小川 私のところにも、子どもの教育ですとか、親の介護ですとか、あるいは急に亡くなってしまったというようなご相談に訪れる方が多くおります。そのときに、言ってくださるのが、「お寺さんですから、実はこういう話ができるんです」という言葉なんです。それを聞きますと、私に話しているのでなくて、阿弥陀さまに話してらっしゃるのかな、という感じがいたします。法然上人のみ教え、私は勉強不足で分からないところも多いのですが、お寺だから話せるというというその言葉で、何か自分が生かされているような感じがするのです。
佐藤 皆さまのお話を聞き、我が身を顧みて忸怩(じくじ)たるものを感じます。

生意気なことを言うようで気がひけますが、ご縁あって僧侶になった私が、僧侶として人生を歩むということは、自分の人生の意味をよく考えながら歩むということだと思っています。まずそれが基本にあるわけで、そこから、他力の真理そのものといっていい阿弥陀仏が語る言葉、これを分かりやすく説かれた法然浄土教の意義を世に伝えていくことが、私の仕事だと思っているんです。
笠原 小川

開教に仏教の将来が(笠原)
仲間が増えればいい(小川)

――― 最後に、国内開教師、海外開教使を含めて、浄土宗の教えを広める教師になりたいという方々に向けて、エールの言葉を送っていただきたいのですが。
佐藤 自分自身にも言い聞かせていることなんですが、開教は長い時間を要する仕事だと思いますので、あまり熱くらならず、力まず、周囲の人々の理解をいただきながら着実にやっていただけたらと思います。新米同士、助け合って一緒にやっていきましょう。
小川 僧侶になろうという発心は、自分の悩みから発するのだと思います。発心いたしましたら、周りの方も応援してくれますし、私どもも毎日試行錯誤ですが、協力もいたします。仲間が増えていけばいいなと思っています。
笠原 国内開教の仕事、私もはじめたばかりで大きなことは言えないのですが、この一年間の自分の経験、また、周りの方を見まして、強く感じることは、国内開教には浄土宗の将来がかかっていると自覚しております。あるいは日本仏教の将来がかかっているのかもしれません。それほどの大事な活動だと思っていますので、とてもやりがいがあります。ぜひ参加をしていただきたいと思います。
杉森 私だけが寺に生まれて寺に育ったということで、いわばぬるま湯育ちといいますか、皆さんの努力や強い志がひしひしと伝わってきましたし、そういう思いを私もうけとめさせていただき、原点に戻って頑張りたいと思います。

慶照院は本寺から離れておりますが、当然、軌道にのるまでは私も開教師の一人としてやらなくてはいけませんし、次の開教師が育つまでは、自ら布教活動をしていかなくてはいけないと考えています。
谷中 私は会社を辞めて飛び込んだのですけれど、寺に入ったときは、これで食べていけるのか不安でした。でも、私の師僧が、「お念仏をしていれば、必ず阿弥陀さまが食べさせてくださる」と言われたのです。まあ、半信半疑で聞いていたのですが、本当に阿弥陀さまに食べさせてもらいました。ただ、寺が動き出すのに三年はかかると思ってください。それまでは我慢が必要だと思います。うまくいかないときはお念仏が足りないと思って、がんばってください。
川野 私は年をとってから僧侶になりましたが、年齢にかかわらず誰でもできるんじゃないかと思っています。志を立てられることは非常に有意義でございますので、肩の力を抜いて力まずに、とにかく修行中は、テレビの前を離れてがんばってください。
対談写真

―――どうもありがとうございました。皆さまのご努力、積み重ね、その成果をうかがってきますと、本当に大変であった日々のことが感じられ、いまその成果が出ていると思います。

そして、まさに宗教、布教の原点が開教にあると思わざるを得ません。人と人との支え合い、結び合い、その中心として寺院があることの意味、そうしたことが寺院を建てることの中心的意味であって、その場所をいかに人のために使うか、そうしたことが必要だと感じさせていただきました。