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お彼岸---極楽浄土への道

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お浄土へ思いをよせ、ご先祖から伝えられた「命」の尊さをかみしめましょう。

お彼岸がやってきます。仏道実践週間ともいわれるこのお彼岸を好機に、お念仏生活へ一歩を歩みだしましょう。

お彼岸を迎えるにあたって

「暑さ寒さも彼岸まで」といいますが、お彼岸は春夏秋冬の四季にめぐまれた日本独特の仏教行事です。

私たちはこの仏教行事をとおして季節の移ろいをも感じとっています。お彼岸につきものの春の”ぼたもち(牡丹餅)”、秋の”おはぎ(御萩)”などもその表れといえるでしょう。

しかし、この彼岸は季節を表す言葉ではありません。

私たちは日ごろ、「あの世、この世」という言葉を使います。「この世」はもちろん私たちの生きている現実世界であり、「此岸(しがん) 」です。

此岸は煩悩渦巻く「四苦八苦」の世界です。限りある苦悩の世界をいとい離れて求められるのが、「あの世」すなわち「彼岸」なのです。

彼岸は限りない命と智慧に満ちあふれた世界です。阿弥陀さまの浄土、西方極楽浄土こそが、私たちの願い求めゆくべき彼岸なのです。

彼岸という仏教行事をとおして私たちは、今を生きるこの私の命がご先祖から永々と伝えられて来た「命のバトン」を受けて生きているという事実を再確認し、彼岸にいらっしゃるご先祖をしのぶとともに、この私も命おえる時には彼岸での「倶会一処(くえいっしょ) 」を願い求め、「四苦八苦」の世界に埋没することなく精進してまいりますという心を堅固にすることが大切なのです。

彼岸への一筋の道

ここで、中国の高僧善導大師が説かれた「二河白道(にがびゃくどう) 」のお話をご紹介しましょう。彼岸と此岸との対応が明確にあらわされています。

一人の旅人が、東から西への旅路を歩いています。突然前方に河があらわれました。立ち止まって後を振り返ると、盗賊や猛獣・毒蛇が襲いかかってきます。

旅人は河の間に小さく細い白道を見つけました。しかし白道の左の方には猛火が燃えさかり、右手は急流が押し寄せてきます。進むも死、戻るも死と、全くの絶望状態です。旅人は躊躇していました。すると、迷っている旅人の耳に、東の岸から声が聞こえて来ました。

「決心してその白道を歩みなさい。死ぬようなことはありません。そこにとどまっていたら死ぬでしょう」と、そしてさらに進もうとする西の岸からも、それに呼応するように「心から信じてすぐこちらに来なさい。私があなたを守ってあげよう。水の河、火の河を恐れることはありません」という声が響いてきました。

その声に励まされて前進する旅人ですが、背後から盗賊や猛獣・毒蛇の声が。「早く引き返しなさい、その道は通れない、行けば死ぬだけだ。我々はあなたを殺したりはしない、引き返しなさい」

旅人はその誘惑に乗ることなく白道を進み、ついに向こうの岸に到達することが出来たのです。

賢明な読者の皆さんはお気付きのことと思います。東岸は娑婆、西岸はお浄土です。盗賊や猛獣・毒蛇は私たちの心に住む煩悩を、火の河は怒りの心、水の河は貪りの心を意味しています。白道は彼岸に到ろうとする清浄な心、東岸の声の主はお釈迦さま、西岸からのそれは阿弥陀さまの呼び声なのです。


お彼岸の由来

さて、私たちが春秋に迎えるお彼岸は、それぞれ春分、秋分の日を中日としての一週間をいい、日本独特の行事です。そしてこのような形態で行われるようになったのは聖徳太子の時代からといわれています。平安時代初期から朝廷で行われ、江戸時代に年中行事化されたという歴史があります。

さらにその根拠を尋ねてみますと、前述の二河白道を説かれた善導大師の著書『観経疏(かんぎょうしょ) 』の「日想観」が源となっています。

善導大師は春分、秋分の日は、太陽が真東から昇り、真西に沈むところから、その陽の沈みゆく西方の彼方にある極楽浄土に思いを凝らすのに適していると説かれました。

お彼岸はこの日想観を行って極楽浄土を慕うことを起源とした仏事なのです。

皆さんも、是非このお彼岸には実践してみてください。ビルの谷間に沈みゆく太陽であろうとも、その彼方には極楽浄土があるのです。


お念仏で彼岸へ渡ろう

私たちが求め慕う彼岸、極楽浄土にはどうすれば到達することができるのでしょう。

煩悩の水火渦巻く私たちにとっての「白道」とは何でしょうか。

阿弥陀さまは、私たちのように自らの力で煩悩を断ち切れない凡夫に救いの手をさしのべる本願を選びとってくださっています。お念仏のみ教えこそが、私たちにとっての「白道」なのです。

お念仏の生活を日々送ることが、彼岸への道を歩むことなのです。

私たちには煩悩の荒波を鎮めたり、猛火を消し止めて彼岸へ到達することはできません。阿弥陀さまの本願の船に乗って彼の岸へ渡らせていただくのが唯一の道なのです。


お念仏の心構え

私たちの彼岸へのよりどころであるお念仏、どのような心でお称えすればよいのでしょう。究極には法然上人のお言葉「智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし」につきるのですが、お念仏を称える心のありかたとして説かれている「三心」についてふれてみましょう。

その第一は「至誠心(しじょうしん) 」です。「至というは真なり、誠というは実なり」というように真実の心、内面にも外面にも嘘偽りがなくありのままの飾ることのない心を「至誠心」といいます。次に「深心(じんしん)」が挙げられています。「深心とは、すなわちふかく信ずるこころなり」なのです。何を深く信じるのかということですが、二つあります。信機、信法です。

「はじめにはわが身の程を信じ、のちに仏の願を信ずるなり」のお言葉があります。

信機はまさに「身の程」を知るということです。「なすべきことをなさず、すべきでないことをしてしまう自己に気付く」ということでしょう。

そんな私をも、阿弥陀さまはお救いくださるのだ、お念仏を称えて、阿弥陀さまの本願力に乗じて必ず往生するぞ、と信ずる心を信法というのです。

三番目は「回向発願心(えこうほつがんしん) 」です。これは、私たちが前世から今に至るまでなしてきた、あるいはこれからなす全ての善い行いの功徳を振り向けて極楽往生、彼岸への到達を願う心をいいます。

このように三心を述べてみるとそれぞれ別個のもののように思われますが、「極楽往生を願う心に嘘偽りがなく、心底往生をしたいと思うのであれば、三心は自然にそなわってくる」と法然上人はおっしゃっています。

このお彼岸を好機として、彼岸への思いを深め、そこへの歩みを踏み出したいものです。