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鼎談 —今こそ『愚かで罪深い』人間観へ—

集合写真

代表的な伝統仏教教団の浄土宗(総本山・知恩院、京都市東山区)と浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺、下京区)、真宗大谷派(本山・東本願寺、同)の3宗派は2011年、それぞれ宗祖の法然上人(しょうにん)800年大遠忌(おんき)、親鸞聖人(しょうにん)750回大遠忌、御遠忌(ごえんき)を迎える。その遺徳を50年ごとにしのぶ宗派最大の行事。宗祖2人は「いのち」の意味について深く思索を巡らせた日本の仏教史上の巨星。なお争いの絶えぬ現代を、我々はどう生きていけばいいのか。宗派の実質的トップである宗務総長3人が、歴史上初めて、その教えや意義を語り合った。(聞き手はキャスター、語り部の平野啓子さん)

写真:熊谷宗惠師
熊谷宗惠師
(くまがい・そうえ)
真宗大谷派宗務総長
金沢市生まれ、67歳。同派教学研究所助手を経て、1977年から宗議会議員となり、宗派の閣僚・参務や宗議会議長などを務め、2003年から現職。真宗大谷学園理事長。囲碁はアマ六段。
写真:水谷幸正師
水谷幸正師
(みずたに・こうしょう)
浄土宗宗務総長
三重県生まれ、77歳。佛教大教授などを経て、1979年から89年まで同大学長。99年から現職。仏教を通じて、日本と中国や韓国など東アジア諸国との文化交流に力を入れている。
写真:不二川公勝師
不二川公勝師
(ふじかわ・こうしょう)
浄土真宗本願寺派総長
広島県生まれ、68歳。1993年から宗会議員となり、2003年から現職。龍谷大理事長。同県吉舎町(現三次市)教育委員や日彰館高同窓会役員など地元に貢献。クラシック音楽に造詣(ぞうけい)が深い。
写真:平野啓子さん
キャスター・語り部 平野啓子さん
静岡県生まれ。早稲田大卒。「NHKニュースおはよう日本」のキャスターや大河ドラマ「毛利元就」、「義経」で「義経紀行」のナレーションを担当。「語り」の芸術家として国内外で公演している。

不二川師/敬う心を身体で表現
水谷師/僧侶まず厳しく反省
熊谷師/宗教は「真」の要求

法然上人と親鸞聖人

平野法然上人と親鸞聖人の出会いは「運命的」です。人は、人生を左右するような「出遇い」にしばしば遭遇します。2人の関係について教えて下さい。
不二川「智慧(ちえ)第一の法然房」と称賛された法然上人は、初めて念仏の教えによって、誰でも同じように迷いを超える道を確立されました。親鸞聖人は、法然上人との出遇いによって念仏の教えに遇うことができ、2人は日本仏教史上でまれにみる師弟関係となりました。親鸞聖人は師の教えに全人生をかけて悔いるところがないとおっしゃいましたし、法然上人もそれを受け止められた。
熊谷親鸞聖人は比叡山での修行中にとても悩んだんでしょうね。出家仏教は戒律を守る僧侶しか救われないが、本来の仏教はすべての在家の人たちのためにあるはずだ。そんな葛藤(かっとう)の中で、貴族にも民衆にもお説法する法然上人に出遇った。一方、六角堂の夢告(むこく)に現れた聖徳太子も優れた在家の仏法者でした。ともに「在家性」で共通する。親鸞聖人は、聖徳太子を観音菩薩(かんのんぼさつ)の化身、法然上人を勢至(せいし)菩薩の化身と仰ぎ、阿弥陀仏を頂かれたのではないでしょうか。
水谷親鸞聖人は「歎異抄」で「法然上人にだまされ、地獄に落ちても構わない」と言っています。これは最も有名な一節です。そこまで弟子から信じられた法然上人がご立派なのはもちろんですが、信じきった親鸞聖人もまた偉大だと思う。「だまされてもいい」。そこまで信じ切れる人がいますか。2人はまさにそんな師弟関係だった。

いのちについて

平野「だまされてもいい」と言った親鸞聖人の言葉は心にぐさっときました。でも、現代は、親子ですら殺し合う世の中で、自殺者も後を絶ちません。法然上人、親鸞聖人の教えからどのようにいのちの大切さを学び、生きたらいいのでしょうか。
熊谷いのちの問題の背景には、現代を生きる私たちの人間観の問題があるのではないでしょうか。法然上人と親鸞聖人は「人間は愚かで罪深い」とみていました。ところが現代の人間観は、「基本的人権と人間の尊厳」を大切にするあまり、その謙虚さ、敬虔(けいけん)さを失ってしまったかのようです。
「人間の尊厳」を訴えながら、一方で争いが絶えることはありません。こうした争いは常に「正義を主張する者」同士で行われるのですが、実は「人間は愚かで罪深い」という人間観こそ、現代に必要とされているのです。そこから、私たちの思いを超えた「いのち」のはたらきが見えてくるのではないでしょうか。
水谷私自身の反省として申し上げますが、結局、こんな世の中になったのは、僧侶が怠慢だったからだと思います。政治や経済が悪いと言う前に、おのれを厳しく反省する。これがお釈迦様の教えです。法然上人は自らを「愚痴(ぐち)」、親鸞聖人は「愚禿(ぐとく)」と呼びました。厳しい反省からしか何も始まりません。
どうすれば世の中は良くなるか。「我執」「我欲」。人間の性(さが)ですが、「煩悩」をなくすことはできません。であれば阿弥陀様に頼るしかない。我々にはお念仏しかない。「南無阿弥陀仏」と申すことで心は静まり、安らかになる。相手に対する思いやりの心も生まれると思います。
不二川仏教では、あらゆるものは、何ひとつ単独で存在しているものはなく、他との関(かか)わりの中に成立していると考えます。これを「縁起」といいます。このような考え方に裏づけられた生命観に立つとき、私の「いのち」は私だけのものではなく、非生物も含めてすべてのものとつながった「いのち」であることが知らされます。そこからお互いの「いのち」を尊重し、大切にする姿勢が生まれるのではないでしょうか。

全派が力合わせ世界平和を

念仏の時代へ

平野「自分は無宗教だ」と思っている日本人が多いように思います。そんな中で「21世紀を念仏の時代」にするため、今後、どのように社会と関わり、展開していくのでしょうか。
水谷鴨長明の「方丈記」は、法然上人が亡くなった年に完成しました。大火や台風、地震、飢饉(ききん)など相次ぐ天災や人災を記していて、現代の世相と重なる面があるように思います。
法然上人が生きておられたら、いまどんなことをお考えになったか。まず悲泣の涙を流されたでしょう。凶悪な犯罪や戦争などを見るにつけ、慈悲の心をもたれたのではないか。悲しみ、苦しみをともにし、慈しみの心を持つ。そういう「菩薩道」こそお念仏の教えなんです。
お念仏に垣根はない。浄土宗、浄土真宗という宗派の違いを乗り越え、日本のみならず、全世界の人々がお念仏の心になれば、きっと平和になるでしょう。それが法然上人の願いではなかったかと思います。
不二川先日、チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ法王が西本願寺を参拝されました。御堂の中で親鸞聖人の御影像を前に、全身を投げ伏す「五体投地」の礼拝をなされました。「敬う心」が非常に強いんですね。その姿に感動しました。私たち現代人は、理屈をよく言うけれども、実際に手を合わせたり、きちんとあいさつしたり、そういう「敬う心」を形に表すことも大切だと改めて考えました。
仏教では人間の活動を身口意、つまり身体と言葉と心に分けますが、言葉だけでなく、身体で思いを表現することも大切な信仰の表し方です。そうすることによって、日本だけでなく世界にもお念仏を受け入れてもらえるだろうと思います。
熊谷我々の明治の先達は「宗教は人間の心の底から生まれる一番強い要求だ」と言っています。人間の魂の要求ならば、宗教心のない人はいないはず。だが、現代人は「あれが欲しい」「こうなりたい」と望むだけで、人間の真の要求を分かっていない。それは「真(まこと)に遇いたい」という要求です。うそや偽り、人殺し、戦争。こんな世にあって、「まことに遇いたい」と思わない人がいるでしょうか。混迷した世の中だからこそ、本当の宗教が必要とされています。3宗派が力を合わせた御遠忌で「あなたが本当に遇いたいのはまことなのである」と訴えていきましょう。

2人の師弟関係

法然「選択集」の書き写し許可
親鸞「地獄へ堕ちても後悔せず」

「(法然)上人もほほ笑んだ。範宴(はんえん)(親鸞)の笑顔からは、ぱらぱらと涙がこぼれた。涙は、随喜の光だった」

鎌倉初期の1201年、親鸞は、法然を京都・吉水の草庵(そうあん)に訪ねた。吉水は、現在の円山公園(京都市東山区)周辺。日本の仏教を大きく変えた69歳の老僧と29歳の青年僧の出会いを、歴史小説の大家吉川英治は、著書「親鸞」の中でこう描写した。

親鸞にとって法然との出会いは人生の転機だった。比叡山で厳しい修行を重ねたが、悟りを得られず、山を下りて京都・六角堂にこもった。95日目の明け方、聖徳太子が夢の中に現れて進むべき道を告げ、法然のもとに駆けつけたという。

親鸞はその感激を「教行信証」で「(1201年)雑行(ぞうぎょう)を棄(す)てて本願に帰す」と記し、「法然上人にだまされ、念仏したために地獄へ堕(お)ちたとしても、決して後悔いたしません」(「歎異抄」現代語訳)と、終生、師の念仏の教えを貫いた。

法然も、親鸞を重くみていた。公にしていなかった自著「選択本願念仏集」を書き写すことを、4年後には許したほど。だが、師弟の平穏な日々は長くは続かず、建永(承元)の法難(1207年)で、法然は四国に、親鸞は越後へと流され、その後、2人がこの世で会うことはなかった。

法然1133(長承2)〜1212(建暦2)

画像:法然

平安末期から鎌倉初期の僧侶。現在の岡山県久米南町に生まれ、9歳の時、夜討ちで父を失うが、遺言であだ討ちを断念したという。その後、比叡山に登り、叡空(えいくう)に師事し、「法然房源空」の名を授かる。1175年、中国・浄土教を大成した善導の「観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ)」を読んで開眼。「南無阿弥陀仏」と念仏をとなえるだけで阿弥陀仏の力(本願)によってすべての人々が極楽往生できるという「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」の道に進む。

この年が浄土宗の立教開宗の年とされ、貴族から盗賊まであらゆる階層の人々が念仏の教えに帰依した。門下に親鸞や聖光(浄土宗第2祖)、証空(浄土宗西山派開祖)。

親鸞1173(承安3)〜1262(弘長2)

画像:親鸞

鎌倉初期の僧侶。京都・青蓮院で9歳にして得度。20年間、比叡山で修行した後、法然の弟子に。当時の念仏弾圧で法然とともに流罪となり、越後(新潟県)に流された後、関東でも念仏を広めた。

主著「教行信証」で、法然の説く「専修念仏」の教えが、すべて阿弥陀仏の力によることを明らかにし、「他力」の信心を説いた。その語録などを集めた「歎異抄」には、本願を疑う自力の善人よりも他力の信心を得た悪人こそが救われるという「悪人正機」の教えが示されている。妻帯し、「非僧非俗」の立場で民衆の中で念仏者として歩み、90歳で亡くなるまで教化に努めた。

3宗派の記念事業

真宗大谷派

本山の東本願寺は、正式には「真宗本廟」と言う。1602年、本願寺12代教如が徳川家康から寺地の寄進を受け、東西本願寺に分立。現在の門首は大谷暢顯師。国内外に55の別院、約8900の寺院がある。

前回の700回御遠忌(1961年)を機に発足した信仰運動である真宗同朋(どうぼう)会運動のさらなる展開を期するとともに、今度の御遠忌のテーマ「今、いのちがあなたを生きている」を宗派内外に表明、今という時代をどう生きるか、「いのち」の意味について問い直す。

法要は、2011年3月19日から5月28日までの期間内に行われ、親鸞の命日(11月28日=旧暦)に合わせ御正当報恩講を営む。記念事業としては、世界最大級の木造建築・御影堂や阿弥陀堂などの修復、親鸞直筆の主著「教行信証(坂東本)」(国宝)の修復・復刻や英訳版の再版など。

浄土宗

法然入滅の地、総本山知恩院(京都市東山区)と徳川家康が手厚く保護した大本山増上寺(東京都港区)など全国7つの大本山をはじめ、国内外7000余の寺院が一つの宗派を構成。現在の浄土門主は中村康隆師。宗務庁が調整役を担う。

法要は8つの総大本山ごとに営まれる。▽知恩院 2011年3月27日—4月25日▽増上寺 同年4月1日—10日(予定)▽金戒光明寺(京都市左京区) 同年4月1日—5日(予定)▽知恩寺(同) 同年4月18日—25日(予定)▽清浄華院(京都市上京区) 同年4月9日—13日▽善導寺(福岡県久留米市) 2013年春(予定)▽光明寺(神奈川県鎌倉市) 2011年7月3日—7日(予定)▽善光寺大本願(長野市) 未定。

記念事業として知恩院・御影堂(国宝)をはじめ各寺院が諸堂の修復や福祉事業などを行う。

浄土真宗本願寺派

本山の西本願寺は、正式には「本願寺」と言う。親鸞の墓所から発展し、3代覚如の時、「本願寺」と名乗った。各地を移転した後、11代顕如が豊臣秀吉から寺地を寄進され現在地に定着した。東西分立後、その位置関係から「西本願寺」と呼ばれる。現在の門主は24代大谷光真師。国内外に55の別院と約1万500の寺院がある。

大遠忌を前に、大谷門主は今年1月、門信徒らにその心構えを消息(手紙)で発表し、「心豊かに生きることのできる世の中、平和な世界を築くために貢献したい」と宣言。2005年から12か年にわたる長期計画を策定し「新たな始まり」をキーワードとして▽現代社会への貢献▽次代を担う人の育成など15の重点項目に取り組む。

法要は2011年4月から親鸞の命日(1月16日=新暦)である翌年1月までの予定

法然、親鸞の関連年表

1133年法然、美作国で生まれる
1147年法然、比叡山で修行始める
1173年親鸞、京都で生まれる
1175年法然、浄土宗を開宗。東山吉水(京都市東山区)などに住む
1181年親鸞、京都・青蓮院で得度。比叡山で修行始める
1186年法然、天台宗の僧侶らと京都・勝林院で問答する=大原談義
1198年法然、「選択本願念仏集」を著す
1201年親鸞、法然の門下に入る
1204年法然、比叡山衆徒らの専修念仏停止の訴えに、門弟を律する「七箇条制誡(しちかじょうせいかい)」を出す。親鸞も署名=元久の法難
1205年法然、親鸞に「選択集」を授ける
1207年後鳥羽上皇が専修念仏停止を命じ、法然を四国に、親鸞を越後(新潟県)に流罪とする=建永(承元)の法難
1211年法然、赦免され、京に帰る
1212年法然、「一枚起請文(きしょうもん)」を記し、亡くなる。80歳
1214年親鸞、越後から常陸(茨城県)に移住し、布教に努める
1224年親鸞、「教行信証」を書き始める
1235年親鸞、このころ娘の覚信尼とともに京へ帰る
1262年親鸞、亡くなる。90歳

言葉の注釈

愚痴仏教の煩悩の一つ。愚かで智慧がなく、道理を解さないこと。
菩薩浄土宗、浄土真宗の本尊は阿弥陀仏で両脇に観音菩薩、勢至菩薩を従え、衆生を救うとされる。「阿弥陀三尊」と呼ばれ、観音は慈悲、勢至は智慧を象徴している。
愚禿愚は愚痴、禿はてい髪をしていない者の意味。親鸞は「智慧がなく、愚か者」との深い自覚に立ち、「愚禿親鸞」と名乗った。

読売新聞平成17年8月14日付
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