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ポスト大遠忌に向けて
お寺「 共生堂 ともいきどう 」で寺院の活性化を

法然上人800年大遠忌記念事業の一つに、お寺「共生堂」事業があります。これは、21世紀の現代社会に寺院は何ができるか、といったことを考え、提案する事業で、ポスト大遠忌、つまり大遠忌後の浄土宗の教化活動の方向性を示す、重要な事業です。今回は、お寺「共生堂」事業推進委員会の委員長である広瀬卓爾さんに、お寺「共生堂」についてお話しをいただきました。

(写真)広瀬 卓爾 さん広瀬 卓爾 さん
【滋賀教区 願海寺 住職】
お寺「共生堂」推進委員会委員長ほか
佛教大学社会学部 教授
華頂女子中学高等学校 校長

劈頭宣言とお寺「共生堂」事業「つながり」の再生

― お寺「共生堂」事業推進委員会では、800年大遠忌が成満した後の浄土宗の教化方針について話し合われていますが、それは、どういった内容のものでしょうか。

広瀬:いま、「大遠忌成満後の浄土宗の教化方針について話し合われていますが…」と申されましたが、私たちの委員会に課せられているのは、既に宗においてその実施の方向が決定されている“お寺「共生堂」事業”の具体的な推進に必要と思われる諸施策や制度に関してであり、教化方針の検討という大きな課題ではありません。まずそのことを申し上げておきます。

それでは、本事業が提案された背景について触れましょう。本委員会の設置を規定した宗令第109号では、「共生堂」を【浄土宗二十一世紀劈頭宣言の精神を体し、檀信徒はもとより地域社会の人々との「対話」と「交流」の場として教化活動及び社会的善行を展開し、地域に存在感のある本宗の寺院及び教会のこと】と規定しています。ご承知のように劈頭宣言は「愚者の自覚を/家庭にみ仏の光を/社会に慈しみを/世界に共生を」と謳っています。

この4句の内、本事業と深く関連するのは第2句から4句までだと思います。

私たち人間は、「家庭」や「社会」さらには「世界」と隔絶して生存することはできません。とりわけ「家庭」と「地域社会」は人間らしい生活をするうえで大変重要な領域です。しかし、今日の日本社会の現実はどうでしょうか?卑近な例になりますが、独居老人の孤独死というには余りにも不可解で悲惨な高齢者の行方不明問題。家族が、自分の肉親の所在と安否を知らずに数十年も過ごしているという驚くべき現象が、この日本で起きているという現実…。幼児に対する虐待や遺棄も後を絶ちません。他者であっても決して許されない行為が、哀しくも親によってなされています。また毎年3万人をこえる自殺も増え続けています。家庭が家庭でなくなっています。家族が家族であればこその絆(きずな)を無くしてしまって、その状態に当の家族も社会も慣れきってしまったというか、格別の関心を向けなくなっている現実がそこにはあります。

この人と人との絆、言い換えれば「つながり」の衰退が、社会のあらゆる方面に現われています。この「つながり」の衰退は、社会関係のような水平的なものだけではありません。ご先祖とこの私という垂直的で時間的な関係においても同じようなことが言えます。

人は、「社会的存在」です。一人では生きることができない。他者の力なくして一瞬たりとも生きることができない存在です。そこに「縁(えにし)」や「おかげさま」の大切さがあるのでしょう。水平的にも垂直的にも「つながり」を失った現代人の悲しい現実に、寺院は、住職はどのように応えることができるのか、このことを問い直そうというのが、共生堂事業推進の提案の背景にあるのだと私は理解しています。

寺院の社会化、檀信徒とともに

― 今日、寺院の社会貢献ということが問われるようになっています。こうしたことも、いま広瀬さんが言われたことなどから、人々の寺院への期待となって表れてきているのでしょうか。そしてまた、そうしたことへの貢献が、お寺「共生堂」の目標となるのでしょうか。

広瀬:近年、寺院の社会的貢献を求める声が教団の内外において高まりつつあることは確かです。しかし、この声というか要望の中身については慎重に吟味する必要があると考えています。希薄化しつつある地域住民の共同性を再構築するために、お寺の施設や境内を開放して欲しいという要望が、特に都市部においては少なくないようです。これは、お寺が有している空間の開放要望であって、他にそのスペースが確保できるならお寺でなくても良いわけですから、その開放をもってお寺が地域と共生しているとは言えません。近年、音楽会や落語会などに境内施設を提供なされる寺院も増えているようですし、委員さんの中には、お寺「共生堂」のひとつのあり方だとお考えになる方もおられまが、私は少々消極的です。

ほとんどのお寺は、その制度の是非は別に検討される必要があるにしても、檀信徒のお寺なんですね。その檀信徒構成のありようによっては、地域社会の宗教施設的要素を色濃く有している寺院もあれば、そうでない寺院も数多くあり、この「お寺は檀信徒さんの施設」という(是非はともかく)認識をいかように持つかは重要な点だと思います。お寺の瓦一枚、畳一枚が檀信徒によって提供され、寺院の護持が可能になっている寺院の場合、「開放」には少なからず、ある種の抵抗感が生じるのは、やむを得ぬことだといえるでしょう。檀信徒組織が強固に制度化されている地域などではなおさらだと思います。

寺院を構成する人々の意識、寺院が位置する地域性は多様です。この点の配慮なくして、行政機関たる宗が画一的にお寺「共生堂」事業のすばらしさを標榜し、個々の寺院に課題として提示し、推進しようとすると軋轢や葛藤も生じるでしょうから慎重であって欲しいと願っています。

もちろん、浄土宗の寺院として、法然上人のみ教えを伝えること(教化)がもっとも大切なことであることは言うまでもありません。教化の一層の推進は自明の課題であり、個々の住職の研鑽が必須になりますが、共生堂事業との関連で申せば、「寺院の社会化」に対する住職の認識というか、現代社会に対する感受性の涵養という課題があります。

70年代の初めごろ「寺院住職に対する住民の役割期待」について調査をしたことがあります。人びとは住職にどのような社会的役割を期待しているのかを明らかにすることが目的の調査でした。その結果を見て、軽いショックを受けたことを思い出します。社会的役割の期待値はかなり低く、むしろ法務専念を望む声が圧倒的に多かったのです。中に、「社会的事象に真摯に関与し、その社会的役割を関係者と同等に負うのであれば大きな期待を寄せもするし喜んで歓迎するが、寺院ならびに住職の存在意義の確認のためなら、むしろ門を閉ざして本務たる法務に専念して欲しい」という付記回答がありました。

人口流動の激しい現時にあって、人びとが寺院と住職に求めているものは何かを知ることは容易ではありません。また知らなくてもなすべき応分の役割はあるはずです。失われつつある「つながり」の実相を如実に知り、その回復のための堅実な努力を惜しまないという姿勢が何より重要でしょう。

いま、遠忌事務局が、このような努力を続けておられる寺院を訪ね、共生堂事業に相応しい先行事例を集めています。また、きょうとNPOセンターなどの協力を得ながら地域と寺院のコラボレーションについて討議も重ねています。

次へのステップは、いまやっと始まったばかりですし、委員会に与えられた時間もあとわずかですから、具体的な提言には至らない可能性もありますが、お寺「共生堂」事業の大枠の方向性が提示できればと思っています。

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