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浮上した個々の生命観

国会でも難航“脳死の決断”

4月24日、脳死状態の人から心臓などの臓器を摘出して移植することを認める2つの臓器移植法案が衆議院で審議され、そのうち中山太郎元外相らの超党派のグループ(生命倫理研究議員連盟)が提出した、脳死を人の死とする法案が、出席議員の3分の2を超える賛成で可決された。日本では、脳死を人の死とすることの是非をめぐって論議がまとまらず、臓器移植法案は1994年に国会に初提出されて以来、継続審議、廃案になってきた経緯がある。

一方、中山案の対案として出された、民主党の金子誠一氏らの議員グループが提出した法案は、脳死を死とする判断はさけ、回復不能な脳死状態の人から臓器の摘出を可能とするもの。臓器移植が合法的に行われている外国でも法的には脳死を死と規定していない例にならったものである。

しかし、臓器移植を必要とする患者団体からは、脳死が法的に、言い換えれば社会的に死と認められなければ移植を受ける気持ちになれないという声が強く、金子案は否決された。
中山案はその後、参議院に送られたが、十分な審議日程がとれない状況の中で、6月17日、急きょ修正可決された。しかし、いわゆる、「2つの死」を認めることによる他の法律への影響など多くの問題点を残す「拙速審議」のそしりを免れないものといわねばならない。

今後も新しい生命観をめぐって論議が続くことだろう。


先端医療が生んだ“脳死”状態

従来は心臓停止・呼吸停止・瞳孔(どうこう)拡大を死の三徴候(ちょうこう)とし、それにより死亡を確認してきた。
もし脳が損傷を受けて機能を停止すれば、これまでの医療では手の施しようがなく、すぐさま三徴候の「死」にたちいたった。したがって脳死状態というものはありえなかった。

しかし、今日の先端医療では生命維持装置によって心臓の鼓動や呼吸を継続させることができるようになった。
脳死者は昏睡(こんすい)状態にあっても通常の体温があり、家族には死んだと思えなくて当然。しかも、交通事故などで若い人が突然に脳死に至るケースが比較的多いので、なおさらである。

冷たくなった死体を目の前にしても死んでしまったとは信じたくないのに、脳死状態で死を受け入れよというのは、かなり残酷である。生命維持装置をつけても多くは数日で三徴候にいたるが、その間、ひょっとしたら回復するかもしれないという望みを断ち切るのは難しいだろう。

それに対して、脳死を人の死と認める立場からは、人為的に生命活動が維持されているだけであって回復の見込みはない、専門用語では「不可逆的に脳の機能が停止」した状態だから死亡したとすべきだという。

しかし、脳死は脳のどの部位の機能が停止したことをいうのか、「不可逆的」の判断は誰がどのように行うのか、必ずしも明確ではない。

その判定について一九九二年の脳死臨調(臨時脳死及び臓器移植調査会)の答申で竹内基準とよばれる見解が出されているが、実際には医療現場の医師が個々に判定して家族に告知しているようである。


臓器を移植すれば健康になれるか

では、難しい問題をもつ脳死をなぜあえて、人の死としなければならないのだろう。いうまでもなくそれは、生きている状態の臓器を摘出して移植医療に利用するためである。

臓器移植とは、心蔵肝蔵腎臓などの臓器の疾患が従来の治療法では対応できないほど重度である場合に、その臓器を他から移植する治療法をいう。

生体肝移植や腎移植など、提供者の生命に影響しない場合はともかく、心臓の場合、提供者の生命は摘出した時点で失われてしまう。しかも臓器は機能を停止するとすぐに変質していくので、できるだけ早く摘出し、速やかに移植しなければならない。心臓の場合、摘出して30分以内に移植する必要があるという。

従来のように死の三徴候を待っていては間にあわない。移植治療の側から見れば、脳死を人の死として臓器を摘出する必要がある。脳死と臓器移植がセットで語られるのは、このためである。

では、このような臓器移植を、治療法としてどう考えていくべきなのだろう。
心臓移植については1967年に南アフリカで初めておこなわれた。その患者は術後18日目に死亡したが、1982年には五年生着率つまり移植後5年間生存する割合が50%に達した。現在はさらに率が上がっているだろうが、一部の報道に見られるように臓器を移植しさえすれば健康になれるかの論には問題がある。さまざまな制約をまぬがれない患者の苦痛や家族の負担、さらには莫大な医療費の負担を社会的にどう分担していくのかという問題もある。
臓器移植は治療の選択の1つと位置づけ、心筋症や肝硬変など移植を必要とする疾患の予防と、人工臓器などの移植以外の治療法の研究こそ本筋だろう。

実際、心臓移植については1970年代に安易な実施が反省され、アメリカでも一部の医療機関をのぞいて行われなくなった。しかし、移植手術によってしか生命を救えない患者がいることも事実であり、完全に実施の道がふさがれていた日本の体制がよかったとはいえない。移植手術を受けるために外国に出かけていく現実を無視していいはずもない。


脳死は“人の死”か

臓器移植法可決の前段階にあった4月24日の中山法案の可決を受けて、各宗教教団から一斉に声明が発表された。
多くは臓器移植に理解は示すものの、法律で脳死を人の死と定めることには抵抗があるというものだった。

浄土宗では、他宗派に先駆けてこの問題に取り組んできた経緯がある。1992年に一宗より諮問を受けて、浄土宗総合研究所から『脳死・臓器移植問題に対する報告』が行われ、脳死について次のような発表がされている。

「脳死が人間の死であるかどうかは、伝統的な仏教の教説にも多様な見解が認められ、直ちに判断することには多くの問題がある。しかし、当面は当事者が臓器の提供を希望して、脳死による死の判定を望むケースのほかは、従来の伝統的な心臓死が望ましい」

今回の法律もこの報告に提示した内容に近いものとなっているが、そこで強調されていることは、各個人の主体的な判断を重んじるべきだということに基づくものである。


求められる医療の透明性

事は法律で定めればよいというものではない。不幸にして次男の脳死という事態に見舞われた評論家の柳田邦男氏は、担当医師や看護婦が脳死後も体をていねいにふいてくれるなど、こまごまと世話をしてくれたことで臓器の提供をしてもよいという気持ちになれたという手記を書いている。そして、肉親の突然の脳死に見舞われた家族は気持ちが動転しているので、医療関係者はぜったいに臓器提供をせかしてはいけないという。

家族に十分な時間をかけて説明し、死を受け入れられるようなカウンセリング機能を充実することが何よりも求められる。
ところが、日本の病院はいまだに患者や家族への情報公開が十分ではない。日本で脳死を死とすることの抵抗が強いのは、そうした医療機関への不信もあろう。法律で脳死が人の死と認められれば機械的に死者としてあつかわれてしまうのではないかと危惧する人も多いのも当然である。宗教界の反応も、そうした危惧に根ざしたものだろう。

一九六八年に札幌医大の和田医師グループによって密室状態で行われた心臓移植への不信から、日本では心臓移植が一種のタブーとなってしまったことを、改めて反省すべきだ。一般人には専門知識がないからといって、正しく物事を判断できないわけではない。臓器移植法が可決されたのは、臓器移植によらなければ死をまぬがれない重度の疾患をもつ人びともいることへの一般の理解が深まったことの証であろう。

なお残る危惧をぬぐいさるには、国民の多くが納得できる体制づくりを作りあげていく必要があろう。法律への反対の声が強かったのも、そうした体勢づくりへのビジョンが見えてこず、いわば見切り発車的なものであったことも影響してるといえよう。


入口にすぎない脳死と臓器移植法

そうした体勢づくりへの論議が十分でないのは、マスコミの側にも少なからず責任がある。この間の新聞報道はもっぱら「脳死を死と認めるかどうか」の一点に集中し、なかには、脳死を死と認めることは「死の青田刈り」などというセンセーショナルな見出しも見られた。そうした報道は国民を不毛の感情論に導き、この問題のもつ幅広く深刻な広がりから目をおおってしまうだろう。

たとえば、臓器移植においては、提供者(ドナー)と患者(レシピエント)、それをつなぐ者(コーディネーター)の三者が公正な立場に立ち、かりにも商行為とされたり、社会的地位などによる不平等が生じないようにしなければならないとされる。

この理念に異論をさしはさむ人はいないだろう。しかし、実際にそれを保障するシステムはどういうものかとなると、簡単ではない。人間のつくる組織は完璧でありえない以上、生じうる問題点を具体的にあげて、オープンに論議することが必要であろう。

それに、今回の法案が呼びおこした論議は、じつは入口にすぎない。
たとえば、今回の法案では心臓などの内臓と眼球だけを摘出・移植の対象としているが、現実の医療では組織移植というものがある。血管・皮膚・骨・靱帯(じんたい)など、人体の組織を移植する治療法は、疾患によってはたいへん有効である。脳死と臓器移植をめぐる論議が一段落した後には、かならずや組織の摘出と利用を認めよという声が出てくるだろう。すでにアメリカでは各種の人体組織を供給する組織バンクが200以上あるという。

アメリカでも臓器や組織の売買は禁止され、脳死者などから無償で提供されているが、人体組織の保存や加工にかかる経費は不透明で、その加工品が商品化する傾向にあるという。

こうしたことへの危惧から、イギリスや北欧諸国では臓器と組織の両方を規制する移植法を定めているが、フランスではさらに、精子・卵子や遺伝子までも含めて、生命科学と先端医療を全体的に規制する法律を制定する動きにあるという。

そのなかで、人間の欲望の際限のない拡大に歯止めをかけようという動きも現れはじめている。クローン技術や遺伝子操作、男女産み分けの問題など、生命観の重要な見直しを求められる問題が出てきている。たとえ技術的には可能であっても、それが望ましくないと社会的に判断される場合には研究を禁止するというものである。