選択本願念仏集 ~ 【第四】三輩念仏往生篇

第四章段
三輩念仏往生の文

仏、阿難に告げたまわく、十方世界の諸天人民、それ至心有って、彼の国に生ぜんと願ずるに、およそ三輩有り。その上輩とは、家を捨て欲を棄てしかも沙門と作り、菩提心を発して、一向に専ら無量寿仏を念じ、諸の功徳を修して彼の国に生ぜんと願ず。これ等の衆生寿終の時に臨んで、無量寿仏、諸の大衆とともに、その人の前に現ず。すなわち彼の仏に随ってその国に往生し、すなわち七宝華の中において自然に化生して不退転に住す。智慧勇猛、神通自在なり。この故に阿難、それ衆生有って、今世において無量寿仏を見たてまつらんと欲せば、まさに無上菩提の心を発し、功徳を修行し、彼の国に生ぜんと願ずべし。

仏、阿難に語げたまわく、その中輩とは、十方世界の諸天人民、それ至心有って、彼国に生ぜんと願ずるに、行じて沙門と作り、大いに功徳を修すること能わずといえども、まさに無上菩提の心を発して、一向に専ら無量寿仏を念ずべし。多少に善を修し、斎戒を奉持し、塔像を起立し、沙門に飯食せしめ、(カトリ=糸+曾)を懸け、燈を燃し、華を散らし、香を焼き、これを以て回向して彼の国に生ぜんと願ず。その人終りに臨んで、無量寿仏その身を化現したまう。光明相好、つぶさに真仏のごとし。諸の大衆とともに、その人の前に現ず。すなわち化仏に随ってその国に往生して、不退転に住す。功徳智慧ついで上輩の者のごとし。

仏、阿難に告げたまわく。その下輩とは、十方世界の諸天人民、それ至心有って、彼の国に生ぜんと欲せんに、たとい諸の功徳を作すこと能たわざるも、まさに無上菩提の心を発して、一向に意を専らにして、乃至十念、無量寿仏を念じて、その国に生ぜんと願ずべし。もし深法を聞いて歓喜信楽して疑惑を生ぜず、乃至一念彼の仏を念じ、至誠心を以て、その国に生ぜんと願ぜば、この人終りに臨んで、夢に彼の仏を見たてまつりて、また往生を得。功徳智慧、ついで中輩の者のごとし。

私に問うて曰く、上輩の文の中に、念仏の外にまた捨家棄欲等の余行有り。中輩の文の中に、また起立塔像等の余行有り。下輩の文の中に、また菩提心等の余行有り。何が故ぞただ念仏往生と云うや。
答えて曰く、善導和尚の『観念法門』に云く、「またこの『経』の下巻の初めに云く。仏説きたまうに、一切衆生の根性は不同にして上中下有り。その根性に随って、仏皆勧めて専ら無量寿仏の名を念ぜしむ。その人命終らんと欲する時、仏聖衆とともに自ら来って迎接してことごとく往生を得せしめたまう」と。この釈の意に依るに、三輩ともに念仏往生と云うなり。

問うて曰く、この釈いまだ前の難を遮せず。何ぞ余行を棄てて、ただ念仏と云うや。
答えて曰く、これに三の意有り。一には諸行を廃して、念仏に帰せしめんが為に、諸行を説く。 二には念仏を助成せしめんが為に、諸行を説く。三には念仏と諸行の二門に約して各三品を立てんが為に、諸行を説く。 一に諸行を廃して念仏に帰せしめんが為に、諸行を説くとは、善導の『観経の疏』の中に、「上来定散両門の益を説くといえども、仏の本願に望むれば、意衆生をして、一向に専ら弥陀仏の名を称せしむるに在り」と云う釈の意に准じて、且くこれを解せば、上輩の中に、菩提心等の余行を説くといえども、上の本願に望むれば、意ただ衆生をして専ら弥陀仏の名を称せしむるに在り。而るに本願の中には、更に余行無し。三輩ともに上の本願に依るが故に一向専念無量寿仏と云う。一向とは、二向三向等に対する言なり。例せば、彼の五竺に三寺あるがごとし。一には一向大乗寺、この寺の中には小乗を学すること無し。二には一向小乗寺、この寺の中には大乗を学すること無し。 三には大小兼行寺。この寺の中には大小兼ね学す。故に兼行寺と云う。まさに知るべし。大小の両寺には一向の言有り。兼行の寺には一向の言無し。今この『経』の中の一向もまた然なり。もし念仏の外にまた余行を加えばすなわち一向に非ず。もし寺に准せば、兼行と云うべし。すでに一向と云う、余を兼ねざること明らけし。すでに余行を説くといえども、後に一向専念と云う。明らかに知んぬ、諸行を廃してただ念仏を用いるが故に一向と云う。もし爾らずば一向の言、最も以て消しがたきか。
二には念仏を助成せしめんが為に、この諸行を説くとは、これにまた二の意有り。一には同類の善根を以て念仏を助成し、二には異類の善根を以て念仏を助成す。
初めに同類の助成とは、善導和尚の『観経の疏』の中に、五種の助行を挙げて、念仏の一行を助成すこれなり。つぶさには上の正雑二行の中に説くがごとし。
次に異類の助成とは、まず上輩に就いて正助を論ぜば、一向専念無量寿仏とはこれ正行なり。またこれ所助なり。捨家棄欲、而作沙門、発菩提心等とは、これ助行なり。またこれ能助なり。謂く往生の業には、念仏を本とす。故に一向に念仏を修せんが為に、家を捨て欲を棄て沙門と作り、また菩提心を発す等なり。中に就いて出家発心等とは、且く初出および初発を指す。念仏はこれ長時不退の行なり。むしろ念仏を妨礙すべけんや。中輩の中に、また起立塔像、懸(ゾウ=糸+曾)、然燈、散華、焼香等の諸行有り。これすなわち念仏の助成なりその旨『往生要集』に見えたり。謂く助念方法の中の、方処供具等これなり。下輩の中に、また発心有り、また念仏有り。助正の義、前に准じて知るべし。
三に念仏諸行に約して、各三品を立てんが為に、諸行を説くとは、まず念仏に約して三品を立つとは、謂くこの三輩の中に、通じて皆一向専念無量寿仏と云う。これすなわち念仏門に約して、その三品を立つるなり。故に『往生要集』の念仏証拠門に云く、「『雙巻経』の三輩の業、浅深有りといえども、しかも通じて皆一向専念無量寿仏と云う。」 感師これに同じ 次に諸行門に約して、三品を立つとは、謂くこの三輩の中に、通じて皆菩提心等の諸行有り。これすなわち諸行に約して、その三品を立つるなり。故に『往生要集』の諸行往生門に云く、「『雙巻経』の三輩も、またこれを出でず。」 已上

およそかくのごときの三義、不同有りといえども、ともにこれ一向念仏の為にする所以なり。初めの義は、すなわちこれ廃立の為に説く。謂く諸行は廃の為に説き、念仏は立の為に説く。次の義は、すなわちこれ助正の為に説く。謂く念仏の正業を助けんが為に諸行の助業を説く。後の義は、すなわちこれ傍正の為に説く。謂く、念仏諸行の二門を説くといえども、念仏を以て正と為し、諸行を以て傍と為す。故に三輩通じて、皆念仏と云うなり。ただしこれ等の三義、殿最知り難し。請う、諸の学者、取捨心に在るべし。今もし善導に依らば、初めを以て正と為すのみ。

問うて曰く、三輩の業皆念仏と云う。その義然るべし。ただし『観経』の九品と、『寿経』の三輩とは、本これ開合の異なり。もし爾らば何ぞ『寿経』の三輩の中には皆念仏と云い、『観経』の九品に至って初めて上中二品に念仏を説かず。下品に至って始めて念仏を説くや。答えて曰く、これに二の義有り。一には問端に云うがごとく、『双巻』の三輩と、『観経』の九品と、開合の異とは、これを以てまさに知るべし。九品の中に、皆念仏有るべし。云何が知ることを得たる。三輩の中に皆念仏有り。九品の中、盍ぞ念仏無からんや。故に『往生要集』に云く、「問う、念仏の行は、九品の中において、これ何れの品の摂ぞや。答う、もし説のごとく行ぜば、理、上上に当れり。かくのごとくその勝劣に随ってまさに九品を分つべし。然るに『経』に説く所の九品の行業は、これ一端を示す。理、実には無量なり」と。 已上 

故に知んぬ、念仏また九品に通ずべし。二には『観経』の意、初めには広く、定散の行を説いて普く衆機に逗し、後には定散二善を廃して、念仏の一行に帰せしむ。いわゆる「汝好持是語」等の文これなり、その義下につぶさに述べるがごとし。故に知んぬ、九品の行は、ただ念仏に在ることを。

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