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教化資料> 第一章 法然上人の十徳について>④高僧帰依の徳(15)

上田見宥師の教化資料を掲載していきます

◎上田見宥師により、十徳の該当場所を『勅修御伝』より抽出しています。
◎浄土宗発行の『浄土宗聖典 第六巻』のページ(P)・行(L)を参考に載せました。(編集者)

④高僧帰依の徳(15)

編集者
39巻は法然上人の中陰中の7日ごとの導師・檀那の名を挙げています。檀那とは、施主、すでに、別に出来上がっているように見えます。導師は、法要の中心となるリーダーでしょうが、ここでの檀那は、諷誦文(ふじゅもん)をそれぞれ唱えます。今の感覚は、捨てましょう。
☆満中陰、七七日の導師は、今回、取りあげている[三井公胤]です。そのことは、39巻の記事ですが、中陰の導師を勤めるようになる[いきさつ]が40巻に語られています。40巻の方が、時間的に早いので、上田見宥師は、先に取りあげられたのでしょうか。

  • 三井公胤(みい・こういん)(1145~1216)

  • 勅修御伝』40巻1段

    一向専修の義を論難する人が多かった中の一人に、三井・園城寺(おんじょうじ)の公胤がいた。公胤は、法然上人を誹謗して、
    「公胤が読んだ書物を、法然上人が読まなかったという事があっても、法然房が読んだ書物を、この公胤が読まなかったということは先ずあるまい」
    と、自賛して『浄土決疑抄』3巻を著して『選択集』を非難したのである。

    『浄土宗聖典 第六巻』(以下略)P610・L10~L13


  • その後、九条兼実の娘で、後鳥羽帝の中宮になっていた任子(にんし)(註)が懐妊された時、法然上人が授戒の戒師として招かれたが、その席でたまたま公胤と面談。
    東大寺の戒の四分律なる事についての公胤の質問に、法然上人は、詳しくこれを釈された。公胤は、感歎し、次の日も亦、二人の面談があった。
    教えられることの多きに、公胤は、
    「今までから、常にお逢いしていたら、もっと色々なことを教わることができたろうに、残念だ。(法然)上人の『選択集』を誹ったのは、大変な間違いであった」
    と、自らの著書『浄土決議抄』を焼き捨てたという。

    P611・L11~P612・L12

     

    編集者(註)
    九条兼実の娘任子(にんし)は、時代に振り回された人でもあります。1173年誕生。
    1190年後鳥羽天皇の元服で、7歳年上の任子が入内(じゅだい・皇居にはいること)。
    95年、中宮(皇后)となって昇子内親王を産む。96年父兼実が失脚し、皇居を退出。宜秋門院として待遇されたが、1211年昇子内親王の死去により、12年に待遇のすべてを奉還。  21年承久(じょうきゅう)の乱では、元夫の後鳥羽上皇も、隠岐の島に流される。そんななかでの、66歳までの生涯であった。


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