ゆっくり、しっかり、いまを生きる

私は時おり地元の港から海を眺めます。造船所、魚市場、松島湾を遊覧する観光汽船などの多様な要素が一つの構図に収まるその景色は、私にとっては幼いころから目にしてきた馴染み深いものです。海から空に目をやるとすっかり夏の雲が広がっています。「本格的な夏だなあ」と心の中で私は呟く。自然の世界の移り変わりがその速度を上げる一方、そのスピードについていこうと思いながらも、新型コロナウイルス感染症拡大がいまだ続く中で、それについていけない自分がいると感じています。

感染症拡大は世界全体の不安を生み出し続けています。文を書き進める前に、患者や利用者のためにと医療や介護の最前線でお働きになっている方、感染の危険を感じながらも社会を維持していくためにお働きになっている方、逆境にめげずお仕事に励む方、ご家庭で子供たちのお世話をされている保護者に、私は敬意と感謝をお伝えしたいです。また、新型コロナウイルスにより闘病生活を強いられている方へのお見舞いを申し上げますとともに、お亡くなりになられた方へ心よりのお念仏をとなえさせていただきます。

 

法然上人は「池の水 ひとのこころににたりけり にごりすむことさだめなければ」(池の水は人の心に似ています。濁ったり澄み渡ったりに決まりがないので)というお歌を遺されています。池の水は、穏やかな日が続けば、澄み渡っていますが、風雨があれば池の底の泥がさらわれて濁ってしまいます。見ている私と関係なく、天候など外的な条件によって、濁り澄み渡るのが池の水なのです。

つまり、私の心は私のもので、自由にコントロールできると普段は思っています。ところがそれは私の思い違いで、ある時は些細なことで山が噴火するように怒り、また、突然の出来事によって悲しみの淵に突き落とされてしまうこともあります。時には誰かのお役に立てたことがあったかもしれませんが、どちらかと言えば思い出して恥ずかしく、思い出したくない自分の心の方が多いでしょう。私たちはコントロールできない心を持っているお互いなのです。

今から9年前、東日本大震災の直後、私は被災地の僧侶として、とにかく皆様の悲しみに寄り添い、期待に応えなければと遮二無二頑張りすぎていました。地震が発生して2週間もすると、周りに対して気丈にふるまっていても、この先いつまでこの状態が続くのだろうと、私の心の中に出口の見えない焦りや不安が見え隠れするようになりました。

そんな時にある方からお電話をいただきました。その方と久しぶりにお話ができたうれしさもあってか、私は堰を切ったように話し続けました。それまでの状況や毎日の私の務めをひとしきり話すと、「それじゃあ、あなたがパンクしちゃうよ。自分の時間を作って」と言われて、私はハッとしました。

このコロナ禍と言われる事態に直面して、その時のことを思い出しています。新しい生活様式の中で普段とは異なる生活を強いられ、過去を振り返れば後悔に苛まれ、未来を望めば不安な気持ちで一杯になる。まさに法然上人の仰っている、池の水のような私の心です。それは私の心の自然な反応でもあります。今を見失わせるのは私の心の得意技なのです。

そのような、今を見失ってしまいかねない心を持つ私であるからこそ、たとえ30秒でも1分でも1日の中で自分の時間を作り「南無阿弥陀仏」とおとなえし、ゆっくり、しっかり、いまこの時を生きることが大切なのだと私は思っています。
またお寺で会える日を楽しみに、いまは共々にそれぞれの場所でお念仏をおとなえしましょう。

(2020年7月6日 東海林良昌 / 宮城・雲上寺)