ありのままの心を表出できる場―アジール―

わたしが生まれ育った地域は労働者の町として知られる場所で、全国各地から働き口を求めて人がやってきていました。いろんな人が集まるうちに、いつの頃からか「どろぼう市」と呼ばれる市場が立つようになりました。かつては盗品がたくさん並んでいたのかもしれませんが、いまではどこからか拾ってきたものや、廃品類、誰かの遺品、出所不明の怪しい古道具など、雑多なものが早朝の短い時間だけ売られています。使い古された物もあれば、なかには新品同様の物もあって、品物が並べられると、みんな楽しそうに眺めて歩きます。盗品ばかりの物騒な市場であったならば大問題ですが、どうやらそんなことはないようです。

しかし、子どもの頃は「どろぼう市」という名前の通り、盗品ばかりが並んでいると思っていました。また、まことに残念なことですが、当時はお墓のお供え物をはじめ、お寺の入口にあったお線香をつけるためのカセットコンロや、庭に置いてあった鍵付きの自転車まで盗まれることがありました。盗む側は、生きるために仕方なく盗みを働くのかもしれませんが、盗まれた側はたまったものではありません。しかも、こうした盗難は、一度や二度ではないのです。物がなくなるたびに、とても悔しい思いをしたのを覚えています。

特に、子どものわたしにとっては宝物でもあった自転車が盗まれたときには、悔しくて悔しくて……。街中あちこちを捜し歩いたこともありました。早朝のどろぼう市でも、父に捜してもらいました。でも、結局見つけることはできなくて、悲しくて涙が止まらなかったことを思い出します。

そうした経験は、同じ地域に住む友人たちにも共通したものでした。ですから、どうやって盗品を取り戻すことができるかを真剣に友人たちと話し合ったこともありました。「お前は知っているか?どろぼう市の品物は、どろぼうが盗んだ物を購入した第三者が販売する品物なので、たとえ盗品であっても、販売者の言い値で買い取らねばならないらしいぞ」などと、およそ子どもらしくない会話をしていたことを覚えています。いま思うと、それほどに盗まれたことのショックは大きくて、子どもながらに真剣に悩んでいたのでしょう。

大切なものを盗まれると心は大きく動揺します。「自分がぼんやりしていたせいだ……」「使った後、すぐに片付けておかなかったから盗まれたのではないか」と、後悔するとともに自分を責めて、とても悲しい気持ちになります。反対に、「普段からうらやましそうにしていたアイツが盗んだんじゃないか」「アイツ、わたしの持っていたものと同じものをもっているな。お前が犯人か?」などと、周囲の人がみんなどろぼうに見えてしまうこともあります。

わたしたちは大切なものを失ったことで心に悲しみやさびしさ、虚しさ、怒り等を感じます。無意識のうちに、そのどうしようもない心苦しさに何とか折り合いをつけようとするのでしょうか。その喪失は自分を含む誰かのせいであると考えることで、不安定になっている心の行き場を定めようとすることがあります。そうして、心の矛先を自分や他人に向け、責めることで理不尽な現実を理解しようともがくのかもしれません。

そんなときには、きまって「自分はこんなにもつらい思いをしているのだから、お前らも嫌な思いをしても多少は我慢しろよ」と言わんばかりに、全身から負のオーラを発したり、八つ当たりしてみたりして、周囲を委縮させたり、嫌な思いをさせたりもします。また、事実を確かめようと思って疑念を言葉にすることで、本当は傷つけたくないのに、相手を傷つけてしまうこともありますし、一方で、事実を知るのが怖くて一切の事実を確認しようとしないこともあります。結局は、望んでいない結果が生じてしまい、自分や他人の気持ちを暗くしていくことが多いように思います。

では、実際に自分の大切なものを失った時にはどうすればよいのでしょうか。大人になると難しいことかもしれませんが、子どもの時のように、まずは大切なものを失って悲しい、つらい、悔しいという気持ちを誰かに聴いてもらったり、胸を借りて泣いたりすることが大事なことだと思います。そうすると、自分が何で悲しいのか、何に怒っているのか、徐々に自分で気づいていけるようになっていきます。必ずしも家族や友人でなくてもいいのです。路傍の石仏やお部屋の仏壇、仏画でも、人格を感じられるような安心できる相手、自分の感情をぶつけてもよい安全な場を設けることが大切です。そのように気持ちを聴いてもらえる機会があると、やがて落ち着いてきたときに「あれは八つ当たりだったかもしれない」などと、自分が周囲の人を嫌な気持ちにさせたことに気づくこともできるでしょう。そして、たとえ悲しいことがあったにせよ、自分が他人を傷つけたと気づいたときには、子どものように「ごめんなさい」と、素直にあやまることが大切なのです。

関係性を自分から修復してゆくことには勇気がいります。だから、自分からあやまることは難しいことかもしれませんが、とても大事なことです。人によって傷つけられた心が、再び平安さを取り戻してゆくにも、人と人とのつながりは欠かせません。一度は人と接することが嫌になる期間があったとしても、本当の断絶にはならないようにしておくことも大切でしょう。

自転車を盗まれたわたしは、悔しくてどうしようもない気持ちを抑えきれずに泣きました。誰にも見られたくないので、お寺の本堂で泣きました。あのとき、一緒になって捜しまわってくれた父と、泣いている自分を静かに見守ってくれていた本尊さまがいてくれたからこそ、わたしは誰かを恨み続けず、さっぱりと気持ちを入れ替えることができたように思います。大人になると見つけにくい、安心な相手と安全な場所。何気ない日常の中に、自分のありのままの心を表出できる場―アジール―を見つけておくことが、不条理なことが多い現実を生きやすくしてくれるのだと思います。

(2021年4月26日 吉水岳彦 / 東京・光照院)