誰かのための墓そうじ

生まれ育った寺の墓地には、歴代住職と寺族の墓があります。知らない人が入っているので、自分のうちの墓という気がしませんで、子どものころは、親の命令で墓掃除をしている感覚でした。ところが思いもよらず、この寺の住職に就任し、お墓に対する思いが一変。昨年末、突然に兄が往生し、この墓に入ってしまったからです。

寺の復興に没頭してきましたが、自分の手に負えないことばかりで、阿弥陀様にお頼りする他にありませんでした。無我夢中に「どうかお導き下さい! なむあみだぶつ」と称え続けておりますと、ありがたいことに大変なことも乗り越えることができました。しかし、田舎の山寺の仕事の多くは、自然との戦い。特に悩まされるのは虫と獣と雑草です。毎日体中いろんな虫に刺され、もう泣きそう。地元の人の完全防備を学んで、戦闘態勢で掃除をするようになりました。お寺がきれいになっていくと、心がすうっと軽くなりますが、猪や鹿やアナグマや猿やハクビシンが山から降りてきて、土をひっくり返したり、大事な庭木や花を食べられたりと悲しくなってしまいます。手入れがされていないと野生の動物が入り込むので、一層気を配らねばなりません。田舎の暮らしに本気で向き合えば、それは戦いではなく、ただ多くの生きものと共生しているだけのことと気づかされます。

疲れてしまったとき、わたしを癒してくれる場所は、山のてっぺんにあるお墓です。緑溢れる風景を見下ろし、田んぼの向こうの里山の姿の美しさを眺めていると心が洗われます。村を一望して、お檀家さんの家を確認。この場所に墓を作ることは、最高の眺めと子孫を見守るためでしょう。ここでひとときを過ごし、お墓を見て回って、枯れた花を集め、またお参りしてくださいますようにと願いつつ、パトロールします。継承者がいなくなって、雑草が深くなってしまった無縁の墓が目立ちます。その寂しさは、たとえようがなく切ないものです。墓地から生え出た雑草は、強情でなかなか取ることができずに、大きくなってコンクリートを剥がしてしまいます。見かねて、念仏をお称えしながら雑草を刈っていきますと、美しい菩薩様が彫られた墓が出てきて、にっこりと微笑。思わず手を合わせます。「ありがとう」と言われているようで、何とも言えない清らかな気持ちになります。本来なら、この墓の縁者が得られるはずの貴い功徳を、私が得ていることに対して申し訳なく思います。

これまでは石の塊のように思えたお墓でしたが、一つ一つのストーリーが見えてきました。旦那さまにあれこれと報告に来るのよ、というおばあさまが「今日は結婚記念日なの」と照れくさそうに小声でつぶやかれました。なんと素敵なお墓との付き合い方でしょう。また、恋人の月命日に、色とりどりのお花を届け、紅茶のペットボトルをお供えする女性。出勤前の早朝にお子様の墓を掃除して、お花を枯らすことがないお父様。お友達のお墓に来られる若い男性二人は、墓をきれいにしながら長いこといっしょに過ごされ、タバコを供えて行きました。本堂には、若くしてこの世を去った英霊の写真が飾られています。その一人のお墓には、当時の首相の奥様が書かれた勇敢な功績が刻まれています。苔の生えた墓石に手を当てると、リアルにその方を感じて涙がこぼれます。

墓地の入り口にある掲示板に、はじめて言葉を書き入れました。
「 誰かのための墓そうじ
  続けてみれば
  自分が
  清められていることに
  気づく 」

お墓で感じられる、大切な方とのやりとりから、この世がすべてではないことを多くの人に知っていただけたらと願っています。

なむあみだぶつ・なむあみだぶ

(2021年8月30日 関 光恵 / 天然寺住職)