雨季のスリランカ

気がつけば、スマートフォンを見ている自分。
他人が発する文字や写真に、踊る感情。
何か、常に新しい情報を手にしなければ、この世の中で取り残されていく――。

現代社会で生きるとは、どういうことでしょうか。

ひょんなことがあって、2016年の1年間を過ごした、スリランカのジャングルの奥。
インド亜大陸の南東に浮かぶその島までは、日本から飛行機で10時間余り。そこからさらに、車で4時間のところにある、仕事で滞在することになった有機農業研修センター。

とある5月の週。雨季の洪水の始まりを、突然の落雷は告げたのでした。
舗装のされていない、荒れた土のでこぼこ道はたちまち陥水し、センターの外に出ることはもはや不可能。停電が起き、洗濯機は作動せず。大きな甕に雨水をためて衣服を洗い、ロウソクの薄暗い光でご飯を食べる……そんな暮らしが唐突に訪れます。

とても不運なことに、雷が近くの電波塔にも落ちたため、電話もインターネットもつながりません。現地の言葉シンハラ語を理解できなかった私は、唯一の情報源であるセンタースタッフの噂話を、暗号のようにただただ聞き流すだけでした。それが真実なのか、フェイクなのか……意味ある文字として機能しない言語は、不安と孤独を執拗にあおります。起こった状況を楽観的にも悲観的にもどう捉えていいのかと戸惑い、感情をどこに向けたらいいのか、もやもやと居心地の悪い感じが果てしなく続く日々――。

どれくらいの時間が流れていたのでしょうか。
手塩にかけて育てていた農作物の大半は、泥水と一緒に流され、枯れ果てていました。食べるものも尽きてきたので、スタッフ一同手分けをしてジャングルのなかに入り、見たことのないキノコや葉を黙々と探し、ココナッツとともにカレーに。そんな状況でも、朝と夕方は、仏前・神前に花を供え、灯をともし、みなで祈りを捧げる。スリランカでは文化となっている10時と16時の紅茶タイムを、朗らかに笑って過ごす――毎日を淡々と過ごすうちに、いつしかすーっとかき消されていった不透明な気持ち。

この間、日本の家族ですら私がどこで何をしているのかを知りません。
だけど、ここに、生きている私。

災害という非常事態が起こり、日常からどんどんと離れていったことで、近くなった、自然やいのち。
それから、見えた自分の欲望。モノをお金で買うという自然な感覚。そこに伴う数字、根拠を追い求める合理的な見方や、もっと早く、スマートに、利便性を追求していく生活のなかに巻き込まれ、ストレスやイライラを抱えていた自身のこころ。

――と、ようやく雨水が引き、道路が乾きはじめ、まもなくセンターの外に出る機会がやってきます。車やバイクが通らない土の道では、あちこちに穴が開き、田んぼからカエルや蛇、ジャングルから動物たちが嬉々として這い出した形跡がみえ、泥のなかにも、新たな緑が活き活きと広がっていました。すべて、人間のいない間に。

さぁ、これから戻っていく。
スマートフォンがインターネットにつながり、続々と入ってくるニュース、メッセージ、広告。ピコンという通知音が一方的に鳴り、右手の親指が一気に忙しさを帯びます。情報と欲望にまみれて、欲求と付き合いながら、悩み、怒り、悲しみといった感情に一喜一憂していく……それが日常というものなのかもしれません。でも、そこに無理をしてしがみつかなくても、確かに生きていたのだと、私は、簡素に。

照り付けるカラカラの日差しはまぶしく、あぁ、終わったんですね、雨季。

(2020年6月15日 山下千朝(僧名:華朝/浄土宗僧侶。Amrita株式会社代表取締役))