今月の言葉:2019年10月

光明徧照

The compassion of Amida Buddha always flows impartially to all who recite Namu Amida Butsu.

 こんな話を聞いたことがあります。息子の夜遊びに悩むある親が、その放蕩ほうとうぶりにしびれを切らし、教育カウンセラーに相談したところ、次のような助言をしてもらったそうです。「息子さんが夜遊びをして遅くなりそうな晩は、自宅玄関の明かりを灯しておきなさい。そうすれば息子さんも更生することでしょう」と。
 親はそんなことで息子の夜遊びが直るのか、わけも分からないままでしたが、助言の通り、その日からというもの息子さんが遅くなる晩は、玄関の明かりをともしておいたままにしたのです。すると、段々と息子さんの夜遊びがなくなったそうです。その息子さんは、自分自身を心配する親の気持ちが、その玄関の明かりに託されていることに気づいたのです。
 「親の心 子知らず」といいますが、ひたすらに我が子を思う親に対して、時に子どもはその思いに気づかずにいます。たとえ気づいていても、その思いに応えようとしないことさえあります。また仏さまの目から見れば、私たちもこの息子さんと同じではないでしょうか。
 浄土宗でりどころとするお経の一つ『観無量寿経かんむりょうじゅきょう』の一節に、「光明徧照こうみょうへんじょう 十方世界じっぽうせかい 念仏ねんぶつ衆生しゅじょう 摂取不捨せっしゅふしゃ」とあります。普段の「おつとめ」(勤行ごんぎょう)では摂益文しょうやくもんというお経でおとなえするものです。これは「阿弥陀さまの慈悲のこころである光明こうみょうは、いつもすべての世界をあまねく照らし、お念仏をおとなえする私たちを見捨てず、必ず救いとってくださる」という意味です。
 この「光明」とは、慈悲の御心、つまり、阿弥陀さまの〝極楽往生を願う者を必ず救いとる〟という本願ほんがんの御心に他なりません。そしてこの光明は、月の光がいつも降り注いでいるのと同じように、阿弥陀さまの光明も常に私たちへ放たれています。しかし、建物の中にいては、その美しさを知ることはありません。実際に建物の中から出て月を眺めてこそ、その美しさを知ることができます。それと同じように、阿弥陀さまの慈悲は平等に降り注いでいますが、お念仏をとなえなければその慈悲を知ることはないのです。
 阿弥陀さまの光明は、あたかも我が子を思う親がその思いを託した玄関の明かりのように、この世で苦しむ私たちを必ず救い取る思いを光明に託し、私たちをいつも照らしてくださいます。
 その本願の御心である光明に気づき、お念仏をとなえ始めるかは、私たちの心持ち次第なのです。
(静岡県御殿場市 龍善寺 北條竜士)

ページのトップへ戻る