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浄土宗とは? ~ 法然上人との一問一答

一百四十五箇条問答

仏教が日本に伝来したのはおよそ千五百年の昔。最初は貴族や学問僧だけのものだった仏教が本当に民衆化し、人々心の支えになったのは、鎌倉時代だったと言われている。その先駆けとなったのが浄土宗の開祖・法然上人でした。

当時、多くの人は字を読むこともできず、仏教の難しい教義を理解することもできませんでした。また、多くの迷信や因習にとらわれ、意味のない女性差別やタブーが横行していました。

そうした状況の中で、人々は本当の救いがどこにあるのかと悩んでいたのでいたのでした。その悩みや疑問に法然上人が自ら答え、正しい念仏に導くための問答集が、『一百四十五箇条問答』です。

ところでこうした迷信や因習は、はたして過去のものでしょうか。いたずらに人をおとしいれる怪しげな健康法や占いがはやる現代においてこそ、信仰のありかたが端的に示された『一百四十五箇条問答』の意味があるのです。

承安五年(1175)の浄土宗宗祖から二十数年を経て、上人のもとには、おびただしい人々が教えを受けに訪れて来ました。この問答集に収められた質問は、そうした人々の疑問を代表するものだったのでしょう。

Q.生まれて100日以内の赤ん坊は、けがれているのでお寺などにお参りしてはいけないと言いますが、どうなのでしょう。

A.さしさわりはありません。なにも汚いものがついているわけではありません。それに汚いといえば、赤ん坊に限ったことではないでしょう。(第10条)

昔は生後100日以内の乳児は汚れているので、お寺や神社などに連れて行ってはいけないという風習がありました。法然上人は、そんなバカな風習は気にするなとはっきり言われています。それに赤ん坊が汚いというなら、大人はもっと汚いではないか、と付け加えてもいます。こういう風習は今でもありますよね。それに惑わされていませんか。

Q.酒を飲むのは罪になるでしょうか。

A.本当は飲まないほうがいいのですが、世の中の習いです。(第57条)

仏教には不飲酒戒という戒があって、インドではお酒を飲むことは禁止されていました。しかし、日本ではお神酒というように、神事やまた人の集まりなどでお酒を飲むことが習慣として行われていたことから、法然上人はあえてそこまで禁止することはないだろう、と社会の習慣をお認めになっていたのです。 法然上人の言いたいことは、大切なのはお念仏をとなえることにあったのです。でも、飲みすぎて人に迷惑をかけるようなことはダメですよ。

Q.魚・鳥・獣の肉を食べるのは、常識に反したことでしょうか。

A.それも前の質問と同じことです。(第58条)

もともとの仏教では肉食が禁じられていたわけではありませんが、殺生につながるため、次第に厳しく禁じられるようになりました。前の質問の飲酒も修行を乱したり、酔って人に迷惑をかけたりすることから禁じられていました。 しかし、そのために念仏がおろそかになるようでは、かえっていけないというのが法然上人の立場です。ことに世間の習慣となっていることを禁じるのは、息がつまって、つまらない世の中になってしまいます。また、細かすぎる規制で何かと問題になることが多い校則も、のびやかな心を育てるという教育の原点に立ち返り、なんのための校則かということを見直すことが必要でしょう。いや、これは、世の中全体についても言えることだと思います。

Q.人をたぶらかす横着な者に、物をあげるのは罪でしょうか。

A.それは罪です。(第42条)

働かない人を甘やかしていると、その人はますます怠け者になってしまいます。ですから、そういう人に物を与えるのは感心しません。しかし、今の世の中には、額に汗して働くより、働かないでお金をもうけたいという風潮があります。世の中自体が横着になっているように見えてなりません。

Q.念仏を行じている者が神社などに参拝するのは、いかがなものでしょうか。

A.さしつかえありません。(第92条)

世の中は、さまざまな考え方をする人がいて成り立っています。そうした中で、自分の考えだけを正しいと主張して、押し通そうとすると、必ずトラブルが生じます。価値観が多様化した時代だといわれる現代こそ、他者の価値観も尊重する広やかな心を持つことが大切です。この場合も、自分が他者とともに神社にお参りしたりしたら、本殿に向かって、静かにお念仏をとなえればいいでしょう。

Q.女性が物事をねたむのは、罪深いものでしょうか。

A.ただ、よくよく一心に念仏しなさい。(第133条)

これは女性だけではありませんよね。男だってねたみ心があります。このねたみ心、やっかいなことに、「ひがみの目」をもってしまった人は、自分ではそれに気付かないことが多いようです。自分はちっとも悪くないのに、と思っているうちに、ますます事態が悪化してしまう。どこに問題があるか、考えることは大切ですが、まずはお念仏をとなえて、心を落ち着けてみれば、視点がかわり、自分の中のひがみの目に気がつきますよ。あせってもダメ。

Q.親への孝行は、親が子にすることを受けないことだと申しますが、いかがでしょうか。

A.まちがいです。(第124条)

親を大切にしたいといって、親になにもさせないようなことは良くありません。人は自分が役立っていると感じられる時に、生きがいをもつことができるのです。大切な親だから楽をさせてやろう、という気持ちは大切ですが、親が親として子や孫や社会の役にたてるように心をくばってやることが、親に疎外感を感じさせない方法でもあるのです。高齢化社会を迎えて重要な問題ですね。

Q.父母より先に死ぬのは罪と申しますが、いかがでしょうか。

A.苦しみの多い世の中では、よくあることです。どちらが先に死ぬか、人の力の及ぶことではありません。 (第39条)

どんなに努力しても、どうしようもないことがあります。この質問の場合もそうで、人の生き死には人の力の及ぶことではありません。悲しいことですが、それを受け止めるしっかりした心を持つことが大切です。

Q.浄土に生まれるためには、あるがままの姿、すなわち真実のあり方を観念する修行(真如観)があると申します。この修行はしなければならないものでしょうか。

A.それは恵心僧都がおっしゃったことです。しかし、そもそも真如観は、私たち普通の人々にはできないことです。往生のためになるとは思えませんので、無益な修行です。 (第3条)

恵心僧都(源信/?-1017)は、『往生要集』を著し、平安時代の浄土教を大成した比叡山の僧です。その頃の念仏といえば、口にとなえるものではなく、むしろ仏の姿や浄土の様相を心に念じることが重要視され、雑念無く仏の姿や浄土の様相を思い浮かべる修行が行われました。しかし、雑念を払おうとすれば、かえって雑念のとりこに なってしまうのが普通の人の常です。真如観のような難しい修行をしようとすれば、挫折して迷い、悩み、ついには目的を失ってしまいます。そんな修行を求めるよりは、口にお念仏をとなえなさい、と法然上人はおっしゃっているのです。そうすれば阿弥陀仏の慈悲の力によって、自然に雑念が払われます。私たちの日常でも、できもしない計画をたてるのは禁物です。できることから着実に実行していけば、自然に目標が達成できるでしょう。

Q.仏を恨むことはあってはならないことでしょうね。

A.どのようなことがあっても仏を恨んではいけません。信があれば、どんなに大きな罪や災いも消えます。信がなければささいな罪や災いにも苦しまねばなりません。
自分の信がないことを反省すべきです。(第119条)

思わぬ災難に出会うと「神も仏もない」と嘆くことがよくありますね。この質問者も、そんな目に合ったのでしょうか。今でも子どもを事故や災害などで亡くすとか、また、なにか願い事を神社仏閣に祈願したのに叶わなかったとか、神仏を恨みたくなるような悲劇に見舞われることがよくあります。しかし、どんな悲劇であれ、一日も早く立ち直ることが大切です。そんな時こそ「信」が本当に必要な時なのです。仏さまへの信があれば、どんな悲劇的なことでも、それを自分のこととして受け止め、他のせい、それも仏さまのせいにして恨むなどできなくなります。今の世の中には、自分の責任を棚に上げて人を責める人が増えています。こうしたことも、法然上人が最後に言っている「自分の信がないことを反省すべきです」という言葉をよくかみしめてほしいものです。

Q.念仏をしているのに腹の立つことがいろいろ思い出されて、心が落ち着きません。どうしたらいいでしょう。

A.心が乱れるのは良くないことです。できるだけ一心に念仏しなさい。(第104条)

仏教では、あらゆる苦しみは心の持ちかたから起こると説かれてきました。これを煩悩といいます。 金品や名誉などに対する欲望は尽きることなく、ねたみや恨みを誘い、人の心から平安をうばってしまいます。ところが、物が豊かになった現在、どちらかと言えば、心のままに生きることがもてはやされています。個性尊重とか「自分らしく生きる」といえば聞こえはいいですが、欲望を野放図に解放することは、ねたみや恨みを増やし、決して幸福にはつながりません。
ところが、こうした欲望が湧き、心が動揺するのが普通の人の常。わかっているけど、思うようにならないのが、人の心というものです。法然上人も心が動揺するのは人の常、その動揺を止めようとするのはむりなことです、とおっしゃっています。これを無理に心を落ち着けようとすると、かえって心が乱れ、いろいろ腹の立つことがふつふつと湧き上がってきたりします。
こんな時は、無理に心を押さえ込もうとしないで、とにかく一心にお念仏をすること。お念仏をとなえ続けているうちに、不思議と心が落ち着いてくるものです。
自分の力で押さえられない心の乱れは仏さまにおまかせするのが一番です。
これが信なのです。

Q.百万遍の念仏を100度申せば必ず浄土に往生すると言われますが、命は短く、となえられそうにありません。どうしたらいいのでしょうか。

A.それは間違った考えです。10度申しても、また1度の念仏でも往生できるのです。(第11条)

お念仏はおまじないではありません。阿弥陀さまをたたえ、阿弥陀さまに帰依する心を示すものです。したがって数多くとなえることが重要なのではなく、心から阿弥陀さまを信じてお念仏をとなえることが大切なのです。この「心から信じて」というところが重要な問題で、信のないお念仏になっては1度でも10度でもダメ。心から信じてとなえれば、1度でも往生できると法然上人はおっしゃっているのです。

Q.毎日の日課念仏は、必ずしも数を決めてとなえなくても、となえられるだけとなえてよいものでしょうか。

A.数を決めておかないと、どうしても怠けるようになりますので、数を決めておくのがよいのです。(第13条)

お念仏は1度でもいいと言っても、それは阿弥陀さまを心から信じることができた場合です。普通はなかなか、そうはいきません。だから、毎日お念仏をとなえる習慣をつけて、自然に心が阿弥陀さまに向くようにすることが、普通の人には適した方法なのです。その場合、数を決めておかないと、ある日は一生懸命お念仏するけど、他の日にはやらないというふうになってしまうので、お念仏の習慣をつけるには数を決めておくのがよい、と法然上人はおっしゃっているのです。怠け心にとらわれやすい人の心を見通されたお答えですね。

Q.寝ても覚めても、口を洗わないで念仏するのは、いかがなものでしょうか。

A.さしつかえありません。(第83条)

お念仏をとなえるうえで、時や場所を気にする人は意外と多いものです。お念仏は、仏壇の前で、きちんと形を整えてとなえなければならないものではありません。法然上人は、歩いているときでも坐っているときでも、また、臥せっているときでもお念仏をとなえなさい、とおっしゃっています。いや、それだけではなく、トイレに入っているようなときでもお念仏をとなえることを勧めています。お念仏は、形を整えてとなえるものではなく、いつでも、どこでもとなえることが大切なのです。

Q.参詣してお経を読んで回向すべきなのに、念仏をとなえてもよいと言われますが、そうでしょうか。

A.さしつかえありません。(第93条)

結論から言えば、神社でも浄土宗以外の他の宗派の寺院でも、どこであってもお念仏をとなえてはいけない場所などありません。どこでもお念仏をとなえてよいのです。ただ、神社や他宗派の寺院では、大きな声ではなく、小さな声でお念仏をとなえるくらいの周囲への配慮が必要でしょう。
最近はいろいろな宗教がでてきて、なかには背後霊だとか先祖の祟りだとか言って、いたずらに恐怖心をあおる悪徳商法まがいのものもあります。こうした社会的のも大きな問題になっている宗教にひっかからないためにも、お念仏だけで良いという法然上人の教えをしっかり守ってください。

Q.常に悪いことをせず、善を行おうと心がけて念仏をとなえるのと、ただ阿弥陀仏の本願を信じて念仏するのと、どちらがよいのでしょうか。

A.悪を止めて善を行うのは、全ての仏の戒めです。しかし、現実の私たちは、みな、それに背いている身ですから、ただひとえに、どんな人をも救おうと願う阿弥陀仏の本 願を胸に深く信じて、南無阿弥陀仏ととなえさせていただくのです。智慧のある者もない者も、戒を守っている者も戒を守れない者も区別なく、阿弥陀仏は浄土に迎えてくれるのです。このことをしっかりとお心得ください。(第145条)

良いことをしようと心がけても、つい悪いことをしてしまう。振り返って我が身をみれば、一度も仏さまの教えに背いていないという人はいないでしょう。それが現実の人間です。法然上人の教えは、自らを含めた人間としての深い反省から生まれたものです。したがって、どんな状態に陥ったとしても絶望ということはありません。必ず救いがあることを信じて、人生を積極的に生きてほしいのです。お念仏とはそういう生きるための教えでもあります。

Q.臨終の時、不浄の人の場合には、阿弥陀仏が迎えに来られても帰ってしまわれると言われますが、本当でしょうか。

A.仏が迎えに来られるというのに、不浄の人がいるからといって、どうしてお帰りになることがあるでしょう。仏には身分の浄・不浄という区別はありません。物の見方に よって、汚いものも清く見え、清いものも汚く見えるということなのです。ただ念仏が大事なのです。清いからといって念仏しないようでは、利益はありません。あらゆるとらわれを捨てて念仏を申しなさい。
このことには多くの証拠があります。(第140条)

人間は、いろいろな偏見にとらわれています。偏見とは、自分の都合によって生まれる利己的な物の見方だから、それにとらわれてはいけないとおっしゃっているのです。そうした偏見でものを見ると、いらぬ心配事や争い事が起こりがちで、平安には暮せません。部落問題などをはじめとしたさまざまな差別問題もこうした偏見から生じていることを忘れてはなりません。
法然上人は、こうした偏見を否定し、あらゆるとらわれを捨てて、念仏を申しなさいと言われるのです。阿弥陀仏は、全ての人を等しく救ってくださる仏であり、来迎して帰ってしまうことなど決してありません。

Q.出家していませんが、極楽に往生できるのでしょうか。

A.在家のままで往生できる人はたくさんおります。(第102条)

これと似た質問が105条にあります。「剃髪せずに髪をのばしたままで死ねば、どうなるのでしょう」と。法然上人はこれに対して「髪のあるなしは問題ではありません。ただ念仏をとなえたかどうかが問題なのです」とお答えになっています。 出家しなければ浄土に往生できないとか、髪をのばしたままだから往生できないというものではありません。阿弥陀仏の救いは、出家と在家とか容姿や身分がどうのというような区別を超えたものなのです。したがって仏教の勉強をしっかりとしたからいいというものでもありません。
心から信じてお念仏をとなえることが大切なのです。 では、どうすれば心から信じることができるのでしょうか。それには素直な心をもつことが、なにより大切なのではないでしょうか。
これは仏教にかぎらず、いろいろなことに共通して言えることです。学校の勉強にしても、知ることの楽しさといった素朴な興味が大切にされなければ、ただの点取り競争になってしまい、人間的な成長も期待できなくなってしまいます。素直になること、これが一番。

Q.長い間、輪廻(りんね)を離れ、迷いと苦しみの世界(三界(さんがい)) には生まれたくないと願って、極楽に生まれたとしても、その縁が尽きるとまたこの世に生まれるということは本当ですか。
たとえ国王ともなり、天上界にも生まれたい、ただ、この苦しみの三界から別れたいと思っているのに、どのような行いをすると、また帰って来なければならないのでしょうか。

A.それは、みな間違いです。極楽に一度生まれれば、永遠にこの世に帰って来ることはなく、みな仏になるのです。
ただし、人を導くために、あえて帰って来ることはあります。しかしそれは、苦しみの生死を繰り返す人としてではありません。迷いと苦悩の世界を離れ、極楽に往生するためには、念仏よりすぐれたものはありません。よくよく念仏をしなさい。(第27条)

いろいろと先のことを心配する人はいるものです。せっかく浄土に生まれても、またこの苦しみの世界に帰って来なければならないのではないかと問う質問者も、そういう人のようです。
阿弥陀仏の救いはもちろん永遠だから、そんなことはありません。それより、今、お念仏をして浄土に生まれること、そしてこの世を平安に生きることを願うべきでしょう。
ここでは、もうひとつ、大切なことが語られています。往相回向と還相回向のことです。往相回向とは、阿弥陀仏の慈悲によって浄土に往生することです。
そして、還相回向とは、その浄土からこの世に帰って人々を救う働きをすることをいいます。 では、救われた身とならなければ、人を救う働きはできないのでしょうか。それはたぶん、違うでしょう。たとえば、ボランティア活動を考えてみましょう。それは単に奉仕することではなく、人のために働くことによって、自分の生きがいを見出し、人間的にも成長する機会を与えられるということがあるのです。これが人を救い、自らも救われる、という仏さまが私たちに教えていることではないでしょうか。ですからどんなことであれ、世のため人のために役立つ活動をしてほしいのです。
なぜなら、あなたの中にも、還相回向のために浄土から帰って、人々を救おうとしている仏さまが住んでいらっしゃるかもしれないのですから。

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