法然上人の
生涯

誕生

法然、仏菩薩の来現をみる

知恩院蔵『法然上人行状絵図』巻一段二

武士が台頭しはじめ、戦乱が多く起こった平安時代後期。法然上人はそのような時代のさなか長承2年(1133)、美作国久米南条稲岡庄(現在の岡山県久米郡久米南町)で生まれました。父親の漆間時国はこの地の豪族で、謀反人や犯罪者をとらえることを任務とする押領使。母親は秦氏といいました。
法然上人は、幼いころは勢至丸と呼ばれ、漆間家の後継ぎとして育てられていました。

父の遺言を受け仏門へ

父時国、明石の源内武者定明の夜討ちに遇う

知恩院蔵『法然上人行状絵図』巻一段四

勢至丸が9歳となった保延7年(1141)、事件が起こります。 当時、父・時国は、中央領主の意を受け荘園を管理していた明石定明と対立関係にあり、その夜討ちを受けます。
この戦いで深手を負った時国は亡くなる直前、次のように勢至丸に遺言します。
「敵を恨んではならない。かたき討ちをすれば、その者の子がお前を恨んで同じことが繰り返される。出家して父の菩提を弔え」
勢至丸は、母親の血縁を頼って、現在の岡山県と鳥取県の県境付近にある菩提寺という寺に預けられ、叔父にあたる勧覚という僧侶のもとで仏教を学ぶこととなります。

比叡山での出家

勢至、剃髪して授戒する

知恩院蔵『法然上人行状絵図』巻三段四

勧覚のもとで修行をしていた勢至丸ですが、その才能を見出され、一説では15歳のとき、多くの僧侶が修行をしていた当時の仏教の中心地、比叡山延暦寺へ送り出されます。
そして持宝房源光という僧侶のもとで勉学を始めますが、その能力の高さを認められ、天台宗の教えに通じた僧・皇円のもとへ。そこで髪をそり落とし、仏教者が守るべき生活規範(戒律)を授けられ、正式に出家し、天台宗の僧侶となりました。

救いの道を求め ─隠遁生活・南都歴訪

勢至丸の理解力の高さには皇円も驚き、僧侶としての地位を高め指導者を目指すことを勧めます。しかし、勢至丸は父の供養をし、静かに仏教を学ぶという初志を貫くため、その元を去り、比叡山でも奥まった人の出入りが少ない西塔黒谷というところへ行き、慈眼房叡空に師事します。若くして栄達の道を捨て仏道を究める道を自然と選んだ勢至丸に感銘を受けた叡空は、「法然道理(あるがままの姿)」から「法然」、そして師であった源光と叡空から一文字をとって「源空」と命名しました。これが法然房源空の由来です。
黒谷で仏教の教えへの理解を深めた法然上人でしたが、争いが頻発するこの荒廃した時代、疲弊し修行などままならない人々に、これら難解な教えはふさわしいのか、との疑問が生じます。そこで24歳のとき、自身の学びが正しいか、京都や奈良の寺院をめぐり、各宗の学僧を訪ねますが、満足する答えは得られません。

称名念仏への確信

比叡山に戻った上人は自身を、仏教理解の乏しい存在「凡夫」とし、荒廃した時代に生きる人々は等しく凡夫ではないかと考えます。そして、その凡夫が救われる教えがないかと黒谷の報恩蔵にこもり、あらゆる経典をまとめた一切経を読みふけりました。
そうした中、中国唐時代の僧・善導大師(613-681)が著した『観無量寿経疏』という書物の中で「一心にもっぱら阿弥陀仏の名をとなえ、いついかなることをしていても、時間の長短に関わらず、常にとなえ続けてやめないことを正定の業という。それは、阿弥陀仏の本願の意趣に適っているからである」との一文に出会い、凡夫もお念仏により浄土への往生がかなうことに確信を得ます。

夢の中での対面 ─二祖対面

法然、夢の中で善導大師に会う

知恩院蔵『法然上人行状絵図』巻七段五

善導大師の一文と出会った直後、法然上人は夢を見ます。夢には善導大師が現れ、次のように言われました。「あなたはお念仏の教えを広めようとしている。それが尊いのであなたの前に現れたのだ」。
夢中でのこの出会いは「二祖対面」と呼ばれ、このとき善導大師の下半身が金色であったとの伝承から、浄土宗の寺院やお仏壇にお祀りする善導大師の像は、半身が金色になっています。

お念仏の広まり ─比叡山を下り、新たな生活へ

法然、東山の吉水に庵を結ぶ

知恩院蔵『法然上人行状絵図』巻六段三

法然上人は、比叡山を下り、お念仏の生活を送るとともに布教も始めました。誰もが救われるとする教えは人々の心を打ち、上人のもとを訪れる人は日ごとに増えていきます。
それは他の僧侶にも伝わり、当時、天台の学僧として活躍していた顕真という僧侶がその教えを知りたいと、多くの僧侶を招き比叡山北西の山麓にある大原という地で討論会を開きます。そこで法然上人は、「この世で厳しい修行をしてさとりを得る一般的な教えと、お念仏で往生してからさとりを目指す浄土宗の教え、内容にこそ優劣はないが、今の時代と人の能力を考えると浄土宗の教えが合っている」との立場を示されました。この答えに納得した顕真をはじめとした僧侶たちは一緒にお念仏をとなえたといい、この出来事は、大原問答と呼ばれています。

たび重なる法難

知恩院蔵『法然上人行状絵図』巻三十一段一

法然上人の教えは広まりを見せますが、上人の教えを誤って理解し、他宗をそしる者が現れたこともあり、浄土宗と他宗の有力寺院との間に摩擦が生じます。元久元年(1204)、延暦寺の僧侶は念仏を差し止めることを同寺のトップであった真性に申し入れ、法然上人はその対応のため、弟子たちに行いを改めさせる文章を作り署名を求めました。この出来事は元久の法難と呼ばれます。
しかし事態は収まらず、今度は、法然上人の2人の弟子が後鳥羽上皇に使える侍女を勝手に出家させる事件が発生。これに上皇が怒り、建永2年(1207)、二人の弟子は死罪、法然上人は土佐への流罪が決まります。この出来事は、建永の法難と呼ばれます。

浄土へ

法然の臨終

知恩院蔵『法然上人行状絵図』巻三十七段五

建暦2年(1212)1月11日、長年身の回りの世話をしていた弟子・源智は法然上人の往生が近いとかんじたのか、上人に浄土宗の教えの肝要を書きとどめるよう願い出ます。それに応えて執筆されたのが「一枚起請文」と伝えられています。
そして「一枚起請文」を記されたとされる二日後の建暦2年(1212)1月25日、上人のお念仏の声は次第にかすかになり、頭を北に顔を西に向け、「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」と唱え往生を遂げられました。

今に伝わる教え

弟子たちは法然上人の残した教えを広めるために尽力し、この中、聖光上人が継承した鎮西義と呼ばれる流派が今の浄土宗となりました。上人の墓所は、最後のお住まいだった大谷という場所に建てられ、後にこの地は浄土宗の総本山・知恩院となります。同院を一望できる高台に立つ墓所・御廟には、多くの人が毎日訪れています。
法然上人の没後800年以上。現代もその教えが途切れないのは、お念仏が「誰もが救われる教え」であるたしかな証でしょう。

奈良 當麻寺奥院蔵 重文「円光大師法然上人坐像」

奈良 當麻寺奥院蔵 重文「円光大師法然上人坐像」