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浄土宗とは? ~ 法然上人について

法然上人

法然上人

平安時代も末の1133年(長承2)、美作国(今の岡山県)に武士の子として生まれた法然上人(幼名勢至丸)は、13歳(一部の伝記では15歳)で比叡山(今の京都府と滋賀県の境)に登り、天台宗の修行と勉学を始めました。わずか数年の後には、「学生三千人」と言われた比叡山で「智慧第一」と謳われるまでになります。現代風に言えばエリート中のエリートだったということでしょうか。

ところが、上人自身にはそうした意識はまったくなかったといいます。それどころか「ろくに戒律(僧としての決まり)も守れない、一つの修行も満足に成し遂げられない、なんと愚かな自分であることか」と、厳しく自己を見つめることに終始します。

その自己省察せいさつが、「仏の慈悲は、本当に困っている人たちにこそ注がれなくて何の意味があろうか。煩悩に満ちた罪深い者(凡夫)こそが救われなければならない。そのための、誰にでもできる方法(修行、教え)が必ずあるはずだ」との思いに至らしめ、上人をさらなる求道へと駆り立てます。法然上人にとって凡夫とは、ほかでもない、自分自身だったのです。

実は上人は9歳のとき、地元の荘園管理者との争いにより父親を亡くしています。その時、父親からこんな遺言をうけました。

「あだ討ちはさらなる恨みを生むだけだ。勇気を出してその連鎖を断ち切れ。そして仏の道に進み、万民が救われる教えを求めよ」

これが、妥協を許さない求道精神として根底に流れ続けていたのでしょう。
しかし、なかなか「これだ!」という教えには出会えません。一時、24歳で比叡山を下り、南都(奈良)の諸寺・高僧を訪ね歩いて教えを乞うたりもしました。が、それでも願いは果たせず、再び比叡山に戻って膨大な経典や文献をひもとくこと、五度に及んだといいます。

そしてついに、そのときは訪れます。
中国・唐時代の高僧善導大師(613―681)の著書により、お念仏こそ、すべての人々が救われる教えであることに間違いはない、との確信を得たのです。気づいてみれば43歳、最初に比叡山に登ってから30年の星霜が流れていました。

浄土宗開宗

一心にもっぱら弥陀の名号を念じ、
行住坐臥ぎょうじゅうざが
時節の久近くごんを問わず、
念々に捨てざる者、是を正定のごうと名づく、
彼の仏の願に順ずるが故に

法然上人伝の多くが語るように、上人が諸行を捨て専修念仏(せんじゅねんぶつ) に帰したのは、1175年(承安5)の春3月でした。恵心僧都の『往生要集』を読み、その教えにより中国唐代の善導大師の『観経疏』の一心専念の文即ち「一心に 専(もっぱ)ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、時節の久近(くごん)を問わず、念々に捨てざる者、是を正定の業(ごう) と名づく、彼の仏の願に順ずるが故に」の文によったのです。

この時より以後、上人は比叡山を下りて、まず西山の広谷に専修念仏の実践者であった遊蓮房を訪ね、その念仏生活に感激し、 東山の吉水におもむき、そこに草庵をむすび往生極楽の法を説き、念仏を人々にすすめられる生活にはいられました。これまでの 聖道門(しょうどうもん) 各宗の教えは、学問のある者、財力のある者におのずから限られていましたが、法然上人の念仏の教えは、いつでもどこでも誰にでも行える念仏で東山の庵室には老若男女の別なく、多くの人々が集まり集団を形成しました。

こうして1175年(承安5)春、浄土宗は開かれました。

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