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浄土宗とは? ~ 法然上人の生涯《誕生~開教まで》

誕生と父上の非業(1~9歳)

法然上人(1133-1212)は崇徳帝の長承二年(1133)四月七日(太陽暦五月二十日)、美作国久米南条稲岡庄(現在の岡山県久米郡久米南町)に 押領使 (おうりょうし) (地方の治安維持にあたる在地豪族)である父の漆間時国と、その奥方である母の秦(はた)氏(うじ)のひとり子として誕生され、幼名を 勢至丸 (せいしまる) と名づけられました。その後、両親のふかい 寵愛 (ちょうあい) を一身にうけてすこやかに成長されましたが、保延七年(1141)、父の時国は 預所 (あずかりところ) (荘園を領主から預かって管理する人)の源内武者定明の夜討ちにあって、あえなく非業の最期をとげられました。ときに勢至丸は九歳でした。

父の遺言

父時国は臨終の枕辺にいならぶ家族にむかって、「われこのきずいたむ。人またいたまざらんや。われこのいのちを惜しむ。人あに惜しまざらんや」と、自他一体感にもとづいて、つよく仇討ちをいましめられたのでした。この遺言は仇討ちを当然視する武士の風習、とりわけ曾我兄弟の登場する時代とほど遠くない時代、五十年前ほど以前のことでしたが、それとはまったく逆の方向を示すものとして注目されています。

出家・修学・隠遁(9~24歳)

観覚 (かんがく) のもとへ

四散を余儀なくされた漆間家の一子勢至丸は、悲歎にくれる母親とわかれて、母方の叔父に あたる菩提寺(岡山県勝田郡奈義町高円)の院主である観覚のもとにひきとられて、仏教の手ほどきをうけることになりました。 観覚は勢至丸の器量の非凡であることに気づき、このような辺境な地に埋もれることを惜しんで将来の大成を期待するのあまり、比叡の学府にうつることを勧めました。

比叡山へ

母にいとまを告げた勢至丸が遠く比叡の学府にいたったのは、天養二年(1145)十三歳(一説久安三年、十五歳)のときでありました。まず西塔北谷の 持宝房源光 (じほうぼうげんこう) について受学し、久安三年(1147)、十五歳のとき戒壇院で 戒 (かい) をさずかって文字通り出家者となりました。その後は功徳院阿闍梨皇円の指導のもとに「天台三大部」(『法華玄義』、『法華文句』、『摩訶止観』各十巻)の勉学にいそしみました。

かねてから仏教の学問は「生死をはなるばかり」とみてとっていた上人は、ミイラとりがミイラになるのをおそれ、出離のこころざしをはたそうとして、ついに久安六年(1150)十八歳で皇円のもとを辞し、西塔黒谷にうつり慈眼房 叡空 (えいくう) に師事することになりました。叡空は、この青年のこころざしをことのほか感激して、「年少であるのに出離のこころざしをおこすとは、まさに法然道理のひじりである」と絶賛し、法然房という房号を与え、さらに源光と叡空の一字ずつをとって、源空という 諱 (いみな) をさずけられたのです。かくして 円頓戒 (えんどんかい) の正当の伝承者である師叡空のきびしい指導のもとに、一切経の読破とその実践に若いエネルギーをおしみなく、そそぎこむ求道の生活を続けられることとなりました。

求道の遍歴(20~40歳前後)

南都の学匠を訪れる

保元元年(1156)、上人二十四歳のとき比叡山をくだって洛西嵯峨の清涼寺に詣で、三国伝来の 釈迦栴檀瑞像 (しゃかせんだんずいぞう) のみまえに、出離のこころざしをすみやかに実現せんことを祈願し、ついで南都の興福寺に法相宗の碩学 蔵俊をたずね、またあるときは醍醐におもむいて三論宗の学匠 寛雅を、あるときは御室に華厳宗の名匠 慶雅をたずねなどして、一日も早く目的をはたそうと努められました。

しかし「智慧第一の法然房」、「ふかひろの法然房」と讃えられることはあっても、だれひとりとして上人の問いかけに心ゆくまで教えをたれてくれる人はいなかったのです。そのたびごとに重い足をひきずりながら黒谷にもどり、報恩蔵にとじこもって、さらに一切経を読みかえし、くりかえしその実践にはげんだのでしたが、「自分は仏教の基本である戒・定・慧 三学の器ではない」ことを痛感するばかりで、なんの進展も感じられなかったのです。

「昨日もいたづらに暮れぬ、今日もまたむなしくあけぬ。今いくたびか暮らし、いくたびかあかさんとする」という、失意絶望にも似たつよい自責のおもいにかられる日がながく続いたのでした。 不撓不屈 (ふとうふくつ) の上人は「この三学のほかに自分の心にぴったりあった法門はなかろうか。かならずや自分の身に適した修行があるはずである」と焦点をしぼって、求道の旅を続けられました。

『往生要集』に導かれて

上人はまえから関心をよせていた比叡山における大先達である 恵心僧都源信 (えしんそうずげんしん) (942-1017)があらわした『往生要集』を、こころひかれるままに熟読したところ、「 慇懃 (いんぎん) な 勧進 (かんじん) のことばは、ただこの称名の一段だけにある」ことをみぬき、これこそ『往生要集』の本意であるとうけとるまでにいたったのです。

しかし、称名によってかならず往生をなしとげることができるという断定については、源信はみずからのことばをもって語らずに、唐の善導大師(613-681)の「十人は十人ながら、百人は百人ながら、かならず往生することができる」という『 往生礼讃 (おうじょうらいさん) 』のことばを借りていることに、注目せざるを得ませんでした。称名による往生の得失というような重要事項について、断定をくだしている善導大師その人の宗教体験のふかさにこころひかれた上人は、「恵心を用いるともがらは、かならず善導に帰すべし」と、その心情を善導大師にかたむけるようになりました。

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