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浄土宗とは? ~ 法然上人の生涯《開教~東大寺講説まで》

浄土宗をひらく(43歳まで)

善導大師への傾倒は伝統という厚い壁をやぶることでもあったので、強い抵抗を廃除しつつ漸次かためられていきました。 師の叡空との間に観仏と称名との優劣について行われたはげしい論難往復は、その一つのあらわれでした。上人にとってこのような抵抗を廃除することよりも、称名による往生に関して自分のこころのなかに残って消えない疑いを、うちやぶることに懸命でした。つまり上人のこころのなかは、称名によってかならず往生が得られるという確たる証拠を、人の上にこの眼でたしかめたい、直接善導大師にお会いして疑いをはらしたいという気持ちで一杯でありました。

あるとき上人は、西山連峯の吉峯の往生院に 高声 (こうしょう) 念仏の行者である遊蓮房 円照 (えんしょう)をたずね、その霊験に接するとともに、称名による往生を眼のあたりにみとどけることを得て、称名往生に確信をいだくことができました。「浄土の法門と、遊蓮房とにあえることこそ、この世に生をうけた思い出である」と述懐された上人のこころは、このことを指しています。

善導大師に導かれて -「散善義」との出会い -

さらにこれと平行して一方では、国をことにするばかりでなく、六百年のへだたりのある善導大師にお会いする道はただ一つ、 遺 (のこ) された著作に接し、熟読して疑いをはらすよりほか道のないことに気付かれました。

上人はあちら、こちらと宝蔵をかけめぐって、善導大師の著作をさがし求められました。「ひろく諸宗の章疏を被覧し、叡岳になきところのものは、これを他山にたずね、かならず一見をとぐ。黒谷の宝蔵に欠くところの 聖教 (しょうぎょう) をば書写したてまつりて、これを補う」ほどの人であったから、比叡山のどこにも見あたらなかった『 観経疏 (かんぎょうしょ) 』『散善義』を、かろうじて宇治の宝庫にさがしだし、これを一度ならず、二度、三度と読みかえすうちに、「こころのみだれたままで、ただ阿弥陀仏のみ名をとなえさえすれば、本願のみこころによって、かならず往生ができる」という確信をもつにいたりました。ときまさに承安五年(1175)春、上人四十三歳のことでありました。

上人のこころのなかに成立した称名往生に関する確信によって、今までの疑いの雲はのこりなく晴れ、今までとはうってかわったこころの世界が展開するにいたりました。この宗教的回心をさして浄土開宗というのです。したがって浄土開宗とは、既成の他宗教団に対抗して新しく教団をうちたてようという組織的、計画的な意図によって行われたわけではないのです。上人の心底は「ただ善導和尚のこころによって浄土宗をたつ。和尚はまさしく弥陀の化身なり。所立の義あおぐべし。またく源空の今案にあらず」という一語につきるのです。

大原談義(43~53歳)

その後、上人は一求道僧として誰からの束縛もうけずに、自由に称名念仏に打ち込むべく、三十年このかた住みなれた比叡の山をおりて、西山の広谷というところに居を占められましたが、しばらくして東山の吉水に住房をうつして、ここを根拠とされることになりました。

「われ聖教をみざる日なし。木曾の冠者花洛に乱入のとき、ただ一日聖教をみざりき」と述懐されているように、嘉永二年(1183)、木曾義仲が京都に乱入した日以外は、称名念仏と聖教の読破にあけくれ、たまたま「たづねいたるものあれば浄土の法門をのべ、念仏の行をすすめる」という静かな生活を続けられていました。

大原談義

上人の日ぐらしはこのようでありましたが、その人格のひかりは暗夜のともしびのように、多くの群萌をひきつけ、その説く専修念仏の教えは各階層の人たちにうけいれられていきました。このなか、とくに南都北嶺の僧たちの注視の眼は、文治二年(1186)の秋、五十四歳の上人をとらえました。それは天台宗の 顕真 (けんしん) (1130~1192)が発起して上人の主張を聴取し、たがいに意見を交換しようとして、三論宗の明遍(1142~1224)、法相宗の 貞慶 (じょうけい) (1155~1213)、天台宗の証真や湛がく (たんがく) 、さらに嵯峨往生院の念仏房(1157~1251)、東大寺大勧進の俊乗房 重源 (ちょうげん) (1121~1206)らを洛北大原の里、勝林院に招じて会合を催しました。世にこの会合を大原談義と呼んでいます。

ときに上人は居ならぶ各宗の碩学を前にして、諸宗の法門、修行の方軌、得脱の有様についてのべ、さらにこれに対して浄土の法門こそ現今、万人に適したただ一つの教え( 時機相応 (じきそうおう) の法門)であることを強調されたのです。

この主張は「教えをえらぶにあらず、機をはかろうなり」という上人のことばどおり、いくら教えの優秀さを誇っても、末法の今どき(時)、 人間 (にんげん) の 性 (さが) に翻弄されている自分自身(機)に堪え得ない教えであるならば、その教えは存在理由を失ってしまうというものでした。

成等正覚という深い宗教体験に輝きたもう大聖釈迦牟尼世尊が、すでにこの世を去りたもうて、その人格のひかりは時の経過とともに次第に消え去った現今(時=末法時)、そのひかりに包まれながら直接その教えを仰ぐことができない、いわば教えを乞う師大聖釈尊をもたない自分、しかも人間の性にふりまわされている自分(機=底下の凡夫)にとっては、ただひたすらに時機に適した教え、現在仏であり、しかもすべての 群萌(ぐんもう) をもれなく救いとろうとなさる阿弥陀仏の本願のみこころのままに、そのみ名を南無阿弥陀仏と高声にとなえるよりほかに、出離生死の道はひらかれないという、上人ご自身の体験からにじみでた意見でありました。

上人のこの主張に対して共感をもっても、 反駁 (はんばく) すべき道理は微塵もなく、来聴者にふかい感銘を与えて、この会合の幕は閉じられました。顕真や湛がくはただちに発起して、勝林院や来迎院で不断念仏を始めるという、予想だにしなかったもりあがりのある結果をみるにいたりました。これこそ上人が「機根くらべには源空かちたり」という述懐を証してあまりあると言えましょう。ともかく大原談義は一種の浄土開宗の宣言として、伝統の厚い壁の一画をうちくだいたことを意味するのです。それは上人が比叡山をくだられて十二年目の出来事でありました。

東大寺での講説(54~57歳)

浄土三部経の講義 ― 東大寺講説 ―

治承四年(1180)十二月、南都の東大寺や興福寺は 平重衡 (たいらのしげひら) のひきいる軍勢によって焼きうちにあいました。その翌年、東大寺の復興に上人を動員せしめようとする後白河院の内命がくだされましたが、上人はかたく辞退して、その大勧進職に俊乗房重源が推挙されました。

かくして東大寺の復興は重源を大勧進に仰いで進められましたが、文治六年(1190)、上人五十七歳のとき、後白河院の命による重源の特請をうけた上人は、まだ半作りの東大寺大仏殿の軒下で、三日間にわたり浄土三部経を講説されることになりました。ときに南都各宗の碩学や覆面した大衆は、自宗のことについて問いかけて、もしその解答にあやまりがあれば、恥をかかさんばかりの意気込みで会座につらなったので、会場には異常な緊張感がみなぎりました。

しかし上人はこともなげに、称名念仏こそ凡夫出離の最適の教えであることを、浄土三部経の講説をとおして披瀝(ひれき)し、教えが時機に相応してこそ、教えは人に生き、人は教えによって生かされる所以を強調されたのです。この講説はある意味で、南都の諸宗を相手とした浄土開宗の宣言でもありました。今日伝えられている「浄土三部経釈」というのは、このときの講録です。重源はこの翌年、上人に対して十箇条にわたる疑問を提出したので、上人はこれに解答をよせられました。世にこれを『東大寺十問答』といっていますが、その記録は現在に伝わっています。

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