選択本願念仏集 ~ 【第十】化仏讃歎篇

第十章段
弥陀化仏の来迎、聞経の善を讃歎せず、ただ念仏の行を讃歎したまうの文

『観無量寿経』に云わく。あるいは衆生有って、衆の悪業を作って、方等経典を誹謗せずといえども、かくのごときの愚人、多く衆悪を造って、慚愧有ること無し。命終らんと欲する時、善知識の為に、大乗の十二部経の首題の名字を讃ずるに遇えり。かくのごときの諸経の名を聞くを以ての故に、千劫の極重の悪業を除却す。智者また教えて、合掌叉手して、南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するが故に、五十億劫の生死の罪を除く。その時彼の仏、すなわち化仏、化観世音、化大勢至を遺わし、行者の前に至らしめ、讃じて言わく、善男子、汝仏名を称するが故に、諸の罪消滅すれば、我れ来って汝を迎うと。

同経の『疏』に云く、聞く所の化讃、ただ称仏の功を述べて、我れ来って汝迎うと、聞経の事を論ぜず。然るに仏の願意に望れば、ただ正念に、名を称することを勧む。往生の義、疾きこと雑散の業に同じからず。この経および諸部の中のごとき処処に広く歎じ、勧めて名を称せしむるを、まさに要益と為す。まさに知るべし。

私に云く、聞経の善は、これ本願に非ず。雑業なるが故に、化仏讃ぜず。念仏の行は、これ本願正業なるが故に化仏讃歎す。加之、聞経と念仏と滅罪の多少同じからず。

『観経の疏』に云く、「問うて曰く、何が故ぞ聞経は十二部、ただ罪を除くこと千劫、称仏は一声、すなわち罪を除くこと五百万劫なるは、何の意ぞや。答えて曰く、造罪の人、障り重く、加えるに死苦来逼を以てす。善人多経を説くといえども、(ザン=ン+食)受の心、浮散す。心散ずるに由るが故に、罪を除くことやや軽し。また仏名はこれ一なり。すなわち能く散を摂して、以て心を住せしむ。また教えて正念に名を称せしむ。心重きに由るが故に、すなわち能く罪を除くこと多劫なり」。

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