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選択本願念仏集 ~ 【第十一】雑善に約対して念仏を讃歎する篇

第十一章段
雑善に約対して念仏を讃歎するの文

『観無量寿経』に云わく、もし念仏せん者、まさに知るべし、この人はすなわちこれ人中の芬陀利華なり。観世音菩薩、大勢至菩薩その勝友と為る。まさに道場に坐し諸仏の家に生るべし。

同経の『疏』に云く、「若念仏者」より、下「生諸仏家」に至る已来は、正しく念仏三昧の功能超絶して、実に雑善をもって比類と為すことを得るに非ざることを顕す。すなわちその五有り。一には専ら弥陀仏の名を念ずることを明し、二には能念の人を指讃することを明し、三にはもし能く相続して、念仏する者は、この人はなはだ希有なりとし、更に物の以てこれに方ぶべき無し。故に芬陀利を引いて、喩と為すことを明す。芬陀利と言うは人中の好花と名づけ、また希有花と名づけ、また人中上上華と名づけ、また人中妙好華と名づく。この華相い伝えて蔡華と名づくこれなり。もし念仏する者は、すなわちこれ人中の好人・人中の妙好人・人中の上上人・人中の希有人・人中の最勝人なり。四には専ら弥陀の名を念ずる者は、すなわち観音勢至常隨影護したまい、また親友知識のごとくなることを明す。五には今生すでにこの益を蒙る、命を捨ててすなわち諸仏の家に入る。すなわち浄土これなり。かしこに到れば長時に法を聞いて、歴事供養す。因円かに果満ず。道場の座。あに(ハルカ=貝+余)ならんやということを明す。

私に問うて曰く、『経』に「若念仏者当知此人等」と云うは、ただ念仏の者に約してこれを讃歎す。釈家何の意有って実に雑善をもって比類と為すことを得るに非ずと云って、雑善に相対して独り念仏を歎ずるや。

答えて曰く、文の中に隠れたりといえども、義意これ明らかなり。知る所以は、この『経』すでに定散の諸善ならびに念仏の行を説く。而るにその中において孤り念仏を標して芬陀利に喩う。雑善に待するに非ずば、云何ぞ能く念仏の功の余善諸行に超えたることを顕さん。然ればすなわち、念仏するものはすなわちこれ人中の好人とは、これ悪に待して美むる所なり。人中の妙好人と言うは、これ粗悪に待して称する所なり。人中の上上人と言うは、これ下下に待して讃ずる所なり。人中の希有人と言うは、これ常有に待して歎ずる所なり。人中の最勝人と言うは、これ最劣に待して褒る所なり。

問うて曰く、すでに念仏を以て上上と名づけば、何が故ぞ上上品の中に説かずして下下品に至って念仏を説くや。

答えて曰く、あに前に云わずや。念仏の行は広く九品に亘ると。すなわち前に引く所の『往生要集』に、「その勝劣に随ってまさに九品を分つべし」と云うこれなり。加之、下品下生はこれ五逆重罪の人なり。而るに能く逆罪を除滅すること余行の堪えざる所、ただ念仏の力のみ有って、能く重罪を滅するに堪えたり。故に極悪最下の人の為に極善最上の法を説く所、例せば彼の無明淵源の病は、中道府蔵の薬に非ざれば、すなわち治すること能わざるがごとし。今この五逆は重病の淵源なり。またこの念仏は、霊薬府蔵なり。この薬に非ざれば、何ぞこの病を治せん。故に弘法大師の『二教論』に『六波羅蜜経』を引いて云く、「第三に法宝とは、いわゆる過去無量の諸仏所説の正法とおよび我が今の所説となり。いわゆる八万四千の諸の妙法蘊なり。乃至有縁の衆生を調伏し純熟す。しかも阿難陀等の諸大弟子をして一たび耳に聞いて皆ことごとく憶持せしむ。摂して五分と為す。一には素咀纜、二には毘奈郁、三には阿毘達磨、四には般若波羅蜜多、五には陀羅尼門なり。この五種の蔵をもって有情を教化し、度すべき所に随って為にこれを説く。もし彼の有情、山林に処し、すでに閑寂に居し、静慮を修せんと楽う者には、しかも彼れが為に素咀纜蔵を説く。もし彼の有情、威儀を習い正法を護持し、一味和合して久住することを得せしめんと楽うには、しかも彼れが為に毘奈郁蔵を説く。もし彼の有情、正法を説き性相を分別し、循環研覈して、甚深を究竟せんと楽うには、しかも彼れが為に阿毘達磨蔵を説く。もし彼の有情、大乗真実の智慧を習って、我法執著の分別を離れんと楽うには、しかも彼れが為に、般若波羅蜜多蔵を説く。もし彼の有情、契経と調伏と対法と般若とを受持すること能わず。あるいはまた有情、諸の悪業たる四重・八重・五無間罪・謗方等経・一闡堤等の種種の重罪を造って、銷滅することを得て、速やかに疾く解脱し、頓に涅槃を悟らしめるには、しかも彼れが為に諸の陀羅尼蔵を説く。この五法蔵は、譬えば乳・酪・生酥・熟酥および妙醍醐のごとし。契経は乳のごとく、調伏は酪のごとく、対法教は彼の生酥のごとく、大乗般若はなおし熟酥のごとく、総持門は譬えば醍醐のごとし。醍醐の味は、乳、酪、酥の中に微妙第一なり。能く諸病を除いて、諸の有情をして身心安楽ならしむ。総持門は、契経等の中に最も第一とす。能く重罪を除き諸の衆生をして、生死を解脱して、速やかに涅槃安楽の法身を証せしむ」。

已上 この中の五無間罪とはこれ五逆罪なり。すなわち醍醐の妙薬に非ざれば、五無間の病、はなはだ療し難しと為す。念仏もまた然なり。往生教の中には念仏三昧は、これ総持のごとくまた醍醐のごとし。もし念仏三昧の醍醐の薬に非ざれば、五逆深重の病、はなはだ治し難しと為す。まさに知るべし。

問うて曰く、もし爾らば下品上生はこれ十悪軽罪の人なり。何が故ぞ念仏を説くや。

答えて曰く、念仏三昧は、重罪なお滅す。いかにいわんや軽罪をや。余行は然らず。あるいは軽を滅して、しかも重を滅せざる有り。あるいは一を消して二を消せざる有り。念仏は然らず。軽重兼ね滅し、一切遍く治す。譬えば阿伽陀薬の遍く一切の病を治するがごとし。故に念仏を以て王三昧とす。およそ九品の配当は、これ一往の義なり。五逆の回心、上上に通じ、読誦の妙行また下下に通ず。十悪軽罪・破戒次罪各上下に通じ、解第一義・発菩提心また上下に通ず。一法に各九品有り。もし品に約せばすなわち九九八十一品なり。加之、迦才の云く、「衆生の行を起すにすでに千殊有り。往生して土を見ることまた万別有るなり」と。一往の文を見て封執を起すこと莫れ。その中に念仏は、これすなわち勝行なり。故に芬陀利を引いて以てその譬とす。譬の意まさに知るべし。加之、念仏の行者をば観音勢至、影と形とのごとく暫くも捨離せず。余行は爾らず。また念仏する者は、命を捨てて已後決定して極楽世界に往生す。余行は不定なり。およそ五種の嘉誉を流え二尊の影護を蒙る。これはこれ現益なり。また浄土に往生して乃至成仏す。これはこれ当益なり。また道綽禅師、念仏の一行において、始終の両益を立つ。『安楽集』に云く、「念仏の衆生は摂取して捨てたまわず。寿尽きて必ず生ず。これを始益と名づく。終益と言うは、『観音授記経』に依るに、云く阿弥陀仏の住世長久、兆載永劫にして、また滅度したまうこと有り。般涅槃の時、ただ観音勢至有って、安楽を住持して十方を接引す。その仏の滅度また住世の時節と等同なり。然るに彼の国の衆生、一切仏を覩見する者あること無し。ただ一向に専ら阿弥陀仏を念じて往生する者のみ有って、常に弥陀現在して、滅したまわざる見る。これすなわちこれその終益なり」。

已上 まさに知るべし。念仏はかくのごとき等の、現当二世始終の両益有り。まさに知るべし。

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