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選択本願念仏集 ~ 【第十四】六方諸仏ただ念仏の行者を証誠したまう篇

第十四章段
六方恒沙の諸仏余行を証誠せず、ただ念仏を証誠したまうの文

善導の『観念法門』に云く、また『弥陀経』に云うがごとき、六方に各恒沙等の諸仏有して、皆舌を舒べて遍く三千世界に覆って、誠実の言を説たまう。もしは仏の在世、もしは仏の滅後の一切造罪の凡夫、ただ回心して阿弥陀仏を念じて、浄土に生ぜんと願ずれば、上百年を尽し、下七日一日十声三声一声等に至るまで、命終らんと欲する時、仏聖衆とともに、自ら来って迎接し、すなわち往生を得せしむ。上のごときの六方等の仏の舒舌は、定んで凡夫の為に証を作し、罪滅して生ずることを得せしむ。もしこの証に依って生ずることを得ざれば、六方諸仏の舒舌、一たび口を出でて已後、ついに口に還り入らずして、自然に壊爛せんとなり。
同じく『往生礼讃』に『阿弥陀経』を引いて云く、東方に恒河沙のごとき等の諸仏、南西北方および上下一一の方に恒河沙のごとき等の諸仏、各本国において、その舌相を出して、遍く三千大千世界に覆って、誠実の言を説きたまう。汝等衆生皆まさにこの一切諸仏諸護念経を信ずべし。云何か護念と名づく。もし衆生有って、阿弥陀仏を称念すること、もしは七日および一日、下十声乃至一声一念等に至るまで必ず往生を得。この事を証誠す。故に『護念経』と名づく。
また云く、六方の如来、舌を舒べて証す。専ら名号を称すれば、西方に至る。かしこに到って華開いて妙法を聞けば、十地の願行自然に彰わる。

同じく『観経の疏』に『阿弥陀経』を引いて云く、また十方の仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらんことを恐畏して、すなわちともに同心同時に、各舌相を出して、遍く三千世界に覆って、誠実の言を説きたまう。汝等衆生、皆まさにこの釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。一切の凡夫、罪福の多少、時節の久近を問わず、ただ能く上百年を尽し、下一日七日に至るまで、一心に専ら、弥陀の名号を念ずれば、定んで往生を得、必ず疑い無しと。
同じく『法事讃』に云く、心心念仏して疑いを生ずること莫れ。六方の如来、不虚を証す。三業専心にして雑乱無ければ、百宝の蓮華、時に応じて見わる。
法照禅師の、『浄土五会法事讃』に云く万行の中に急要たり迅速なること、浄土門に過ぎたるは無し。ただ本師金口の説のみにあらず。十方の諸仏、ともに伝証す。

私に問うて曰く、何が故ぞ六方の諸仏の証誠、ただ念仏の一行に局るや。
答えて曰く、もし善導の意に依れば、念仏はこれ弥陀の本願なり。故にこれを証誠す。余行は爾らず、故にこれ無し。

問うて曰く、もし本願に依って念仏を証誠せば、『双巻』、『観経』等に、念仏を説く時、何ぞ証誠せざるや。
答えて曰く、解するに二義有り。一に解して云く、『双巻』、『観経』等の中に、本願念仏を説くといえども、兼ねて余行を明す。故にこれを証誠せず。この『経』の中には一向に純ら念仏を説く。故にこれを証誠す。二に解して云く、彼の『双巻』等の中に、証誠の言無しといえども、この『経』すでに証誠有り。これに例して彼れを思うに、彼等の『経』の中において説く所の念仏、またまさに証誠の義有るべし。文はこの『経』に在りといえども、義は彼の『経』に通ず。故に天台の『十疑論』に云く、「また『阿弥陀経』・『大無量寿経』・『鼓音声陀羅尼経』等に云わく、釈迦仏、この経を説きたまう時に、皆十方世界に各恒河沙諸仏有して、その舌相を舒べて、遍く三千世界に覆って、一切衆生、阿弥陀仏を念ずれば、仏の大悲本願力に乗ずるが故に、決定して極楽世界に生ずることを得と証誠す」。

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