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選択本願念仏集 ~ 【第二】雑行を捨てて正行に帰する篇

第二章段
善導和尚正雑二行を立てて、しかも雑行を捨てて正行に帰するの文

『観経の疏』の第四に云く、行に就いて信を立つとは、然るに行に二種有り。一には正行、二には雑行なり。正行と言うは専ら往生経に依って行を行ずる者、これを正行と名づく。何の者か是なる。一心に専らこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦し、一心に専注して、彼の国の二報荘厳を思想し観察し憶念し、もし礼するには、すなわち一心に専ら彼の仏を礼し、もし口称するには、すなわち一心に専ら彼の仏を称し、もし讃歎供養するには、すなわち一心に専ら讃歎供養す。これを名づけて正とす。またこの正の中に就いてまた二種有り。一には一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥に時節の久近を問わず、念念に捨てざる者、これを正定の業と名づく。彼の仏の願に順するが故に。もし礼誦等に依るをば、すなわち名づけて助業と為す。この正助二行を除いて已外の自余の諸善をことごとく雑行と名づく。もし前の正助二行を修すれば、心常に親近し憶念して断えざるを、名づけて無間とす。もし後の雑行を行ずれば、すなわち心常に間断す。回向して生ずることを得べしといえども、すべて疏雑の行と名づく。

私に云く、この文に就いて二の意有り。一には往生の行相を明し、二には二行の得失を判す。

初めに往生の行相を明すとは、善導和尚の意に依るに往生の行多しといえども、大に分ちて二と為す。一には正行、二には雑行なり。初めに正行とは、これに付いて開合の二義有り。初めには開して五種とし、後には合して二種とす。初めの開して五種とすとは、一には読誦正行、二には観察正行、三には礼拝正行、四には称名正行、五には讃歎供養正行なり。

第一に読誦正行とは専ら『観経』等を読誦する。すなわち文に、「一心に専らこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦す」と云えるこれなり。

第二に観察正行とは専ら彼の国の依正二報を観察する。すなわち文に、「一心に専注して彼の国の二報荘厳を思想し観察し憶念す」と言えるこれなり。

第三に礼拝正行とは、専ら弥陀を礼する。すなわち文に、「もし礼するには、すなわち一心に専ら彼の仏を礼す」と言えるこれなり。

第四に称名正行とは、専ら弥陀の名号を称する。すなわち文に、「もし口に称するには、すなわち一心に専ら彼の仏を称す」と云えるこれなり。

第五に讃歎供養正行とは、専ら弥陀を讃歎供養する。すなわち文に、「もし讃歎供養するには、すなわち一心に専ら讃歎供養す。これを名づけて正と為す」と云えるこれなり。もし讃歎と供養とを開して二と為せば、六種正行と名づくべし。今合の義に依るが故に五種と言う。

次に合して二種とすとは、一には正業、二には助業なり。初めに正業とは、上の五種の中の第四の称名を以て正定の業とす。すなわち文に、「一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問わず。念念に捨てざる者、これを正定の業と名づく、彼の仏の願に順ずるが故に」と云えるこれなり。次に助業とは、第四の口称を除いて外、読誦等の四種を以て助業とす。すなわち文に、「もし礼誦等に依らば、すなわち名づけて助業とす」と云えるこれなり。

問うて曰く、何が故ぞ、五種の中に独り称名念仏を以て、正定業と為するや。答えて曰く、彼の仏の願に順ずるが故に。意の云く、称名念仏は、これ彼の仏の本願の行なり。故にこれを修する者は、彼の仏の願に乗じて必ず往生することを得る。その仏の本願の義は、下に至って知るべし。

次に雑行とは、すなわち文に、「この正助二行を除いて已外の自余の諸善をことごとく雑行と名づく」と云えるこれなり。意の云く、雑行無量なり。つぶさに述べるに遑あらず。ただし今且く五種の正行に飜対して、以て五種の雑行を明さん。

一には読誦雑行、二には観察雑行、三には礼拝雑行、四には称名雑行、五には讃歎供養雑行なり。第一に読誦雑行とは、上の『観経』等の往生浄土の経を除いて已外の大小乗顕密の諸経において、受持し読誦するを、雑行と名づく。第二に観察雑行とは、上の極楽の依正を除いて已外の大小、顕密、事理の観行、皆ことごとく観察雑行と名づく。第三に礼拝雑行とは、上の弥陀を礼拝するを除いて已外の、一切の諸余の仏菩薩等、および諸の世天等において、礼拝恭敬するを、ことごとく礼拝雑行と名づく。第四に称名雑行とは、上の弥陀の名号を称するを除いて已外の自余の一切の仏菩薩等、および諸の世天等の名号を称するを、ことごとく称名雑行と名づく。

第五に讃歎供養雑行とは、上の弥陀仏を除いて已外の一切の諸余の仏菩薩等および諸の世天等において、讃歎供養するを、ことごとく讃歎供養雑行と名づく。この外にまた布施・持戒等の無量の行有り。皆雑行の言に摂尽すべし。

次に二行の得失を判せば、「もし前の正助二行を修すれば、心常に親近し、憶念して断へざるを名づけて無間と為す。もし後の雑行を行ずれば、すなわち心常に間断す。回向して生ずることを得べしといえども、すべて疎雑の行と名づく」と、すなわちその文なり。この文の意を案ずるに、正雑二行に就いて、五番の相対有り。一には親疎対、二には近遠対、三には有間無間対、四には回向不回向対、五には純雑対なり。

第一に親疎対とは、まず親とは正助二行を修する者は、阿弥陀仏においてはなはだ以て親眤とす。故に『疏』の上の文に云く、「衆生、行を起こして、口常に仏を称すれば、仏すなわちこれを聞きたまう。身常に仏を礼敬すれば、仏すなわちこれを見たまう。心常に仏を念ずれば、仏すなわちこれを知りたまう。衆生仏を憶念すれば、仏また衆生を憶念したまう。彼此の三業相い捨離せず。故に親縁と名づく」と。次に疎とは雑行なり。衆生仏を称せざれば、仏すなわちこれを聞きたまわず。身仏を礼せざれば、仏すなわちこれを見たまわず。心仏を念ぜざれば、仏すなわちこれを知りたまわず。衆生仏を憶念せざれば、仏衆生を憶念したまわず。彼此の三業常に捨離す。故に疎行と名づく。

第二に近遠対とは、まず近とは、正助二行を修する者は、阿弥陀仏においてはなはだ以て隣近とす。故に『疏』の上の文に云く、「衆生仏を見んと願わば、仏すなわち念に応じて、目の前に現在したまう。故に近縁と名づく」と。次に遠とは雑行。衆生仏を見んと願わざれば、仏すなわち念に応ぜず。目の前に現じたまわず、故に遠と名づく。ただし親近の義これ一なるに似たりといえども善導の意分ちて二とす。その旨、『疏』の文に見えたり。故に今引釈する所なり。

第三に無間有間対とは、まず無間とは、正助の二行を修する者は、弥陀仏において憶念間断せず。故に名づけて無間とすと云えるこれなり。次に有間とは、雑行を修する者は、弥陀仏において、憶念常に間断す。故に心常に間断すと云えるこれなり。

第四に不回向回向対とは、正助二行を修する者は、たとい別に回向を用いざれども、自然に往生の業と成る、故に『疏』の上の文に云く、「今この『観経』の中の十声称仏はすなわち十願十行有って具足す。云何が具足する。南無と言うはすなわちこれ帰命、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏と言うはすなわちこれその行なり。この義を以ての故に必ず往生を得」。已上 次に回向とは、雑行を修する者は必ず回向を用うる時。往生の因と成る。もし回向を用いざる時は、往生の因と成らず。故に回向して、生ずることを得べしといえどもと曰えるこれなり。

第五に純雑対とは、まず純とは正助二行を修する者は、純らこれ極楽の行なり。次に雑とは、これ純ら極楽の行に非ず。人天および三乗に通じ、また十方の浄土に通ず。故に雑と云うなり。然れば西方の行者すべからく雑行を捨てて正行を修すべし。

問うて曰く、この純雑の義、経論の中において、その証拠有りや。答えて曰く、大小乗の経律論の中において、純雑の二門を立てること、その例一に非ず。大乗には、すなわち八蔵の中において、雑蔵を立つ。まさに知るべし。七蔵はこれ純、一蔵はこれ雑なり。小乗にはすなわち四含の中において、雑含を立つ。まさに知るべし。三含はこれ純、一含はこれ雑なり。

律にはすなわち二十(ケン=牛+建)度を立てて、以て戒行を明す。その中に前の十九はこれ純、後の一はこれ雑(ケン)度なり。論にはすなわち八(ケン)度を立てて、諸法の性相を明す。前の七(ケン)度はこれ純、後の一はこれ雑(ケン)度なり。『賢聖集』の中の唐宋両伝には、十科の法を立てて、高僧の行徳を明す。その中に前の九はこれ純、後の一はこれ雑科なり。乃至『大乗義章』に五聚法門有り。

前の四聚はこれ純、後の一はこれ雑聚なり。また顕教のみに非ず、密教の中に純雑の法有り。謂く『山家の仏法血脈の譜』に云く、「一には胎蔵界の曼陀羅血脈の譜一首、二には金剛界の曼陀羅血脈の譜一首、三には雑曼陀羅の血脈の譜一首、前の二首はこれ純、後の一首はこれ雑なり。純雑の義多しといえども、今略して小分を挙ぐるのみ。まさに知るべし。純雑の義、法に随って不定なり。

これに因って今善導和尚の意、且く浄土の行において、純雑を論ずる。またこの純雑の義、内典のみかぎらず。外典の中に、その例はなはだ多し。繁きを恐れて出さず。ただし往生の行において、二行を分つこと善導一師に限らず。もし道綽禅師の意に依らば、往生の行多しといえども、束ねて二とす。一には謂く念仏往生、二には謂く万行往生。もし懐感禅師の意に依らば、往生の行多しといえども束ねて二とす。一には謂く念仏往生、二には謂く諸行往生なり。慧心これに同じかくのごときの三師各二行を立てて往生の行を摂すること、はなはだその旨を得たり。自余の諸師は然らず。行者まさにこれを思うべし。

『往生礼讃』に云く、もし能く上のごとく念念相続して、畢命を期とする者は、十はすなわち十生じ、百はすなわち百生ず。何を以ての故に。外の雑縁無く、正念を得るが故に。仏の本願と相応することを得るが故に。教に違わざるが故に。仏語に隨順するが故なり。もし専を捨て、雑業を修せんと欲する者は、百時希に一二を得、千時希に五三を得。何を以ての故に。すなわち雑縁乱動して、正念を失うに由るが故に。仏の本願と相応せざるが故に。教と相違するが故に。仏語に順ぜざるが故に。係念相続せざるが故に。憶想間断するが故に。回願慇重真実ならざるが故に。貧瞋諸見の煩悩、来って間断するが故に。慚愧懺悔の心有ること無きが故に。また相続して彼の仏恩を念報せざるが故に。心に軽慢を生じて、業行を作すといえども、常に名利と相応するが故に。人我自ら覆うて、同行善知識に親近せざるが故に。楽うて雑縁に近づいて、往生の正行を自障障他するが故なり。

何を以ての故に。余このごろ自ら諸方の道俗を見聞するに、解行不同にして専雑異なり有り。ただ意を専らにして、作さしめる者は、十はすなわち十生ず。雑を修して至心ならざる者は、千の中に一も無し。この二行の得失前にすでに弁ずるがごとし。仰ぎ願わくは一切の往生人等、善く自ら思量せよ。すでに能く今身に彼の国に生ぜんと願ずる者は、行往坐臥必ずすべからく心を励まし己を剋めて、昼夜に廃すること莫く、畢命を期とすべし。上一形に在るは、少苦なるに似たれども、前念に命終して、後念にすなわち彼の国に生れて、長時永劫に常に無為の法楽を受く。乃至成仏まで生死を経ず。あに快きに非ずや。まさに知るべし。

私に云く、この文を見るに、いよいよすべからく雑を捨てて専を修すべし。あに百即百生の専修正行を捨てて、堅く千中無一の雑修雑行を執せんや。行者能くこれを思量せよ。

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