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選択本願念仏集 ~ 【第六】末法万年に特り念仏を留むる篇

第六章段
末法万年の後に余行ことごとく滅し、特り念仏を留むるの文

『無量寿経』の下巻に云わく、当来の世に経道滅尽せんに、われ慈悲哀愍を以て、特りこの経を留めて、止住すること百歳ならん。それ衆生有って、この『経』に値わん者は、意の所願に随って、皆得度すべし。

私に問うて曰く、『経』に「特留此経止住百歳」と云って、全くいまだ「特留念仏止住百歳」と云わず。然るに今何ぞ特留念仏と云うや。

答えて曰く、この『経』の所詮は全く念仏に在り。その旨前に見えたり。再び出だすこと能わず。善導・懐感・慧心等の意も、またまたかくのごとし。然ればすなわちこの『経』の止住は、すなわち念仏の止住なり。然る所以は、この『経』に菩提心の言有りといえども、いまだ菩提心の行相を説かず。また持戒の言有りといえども、いまだ持戒の行相を説かず。而るに菩提心の行相を説くことは、広く『菩提心経』等に在り。彼の『経』先に滅しなば菩提心の行、何に因ってかこれを修せん。また持戒の行相を説くことは、広く大小の戒律に在り。彼の戒律先に滅しなば、持戒の行、何に因ってかこれを修せん。自余の諸行これに準じてまさに知るべし。故に善導和尚の『往生礼讃』にこの文を釈して云く、「万年に三宝滅せんに、この『経』、住すること百年ならん。その時聞いて一念せば、皆まさにかしこに生ずることを得べし」。
またこの文を釈するに、略して四の意有り。一には聖道浄土二教住滅の前後。二には十方西方二教住滅の前後。三には都率西方二教住滅の前後。四には念仏諸行二行住滅の前後なり。
一に聖道浄土二教住滅の前後とは、謂く聖道門の諸教は先に滅す、故に「経道滅尽」と云う。浄土門のこの『経』特り留まる。故に「止住百歳」と云う。まさに知るべし、聖道は機縁浅薄にして、浄土は機縁深厚なり。
二に十方西方二教住滅の前後とは、謂く十方浄土往生の諸教、先に滅す。故に「経道滅尽」と云う。西方浄土往生のこの『経』特り留まる。故に「止住百歳」と云う。まさに知るべし、十方の浄土は機縁浅薄にして、西方浄土は機縁深厚なり。
三に兜率西方二教住滅の前後とは、謂く『上生』、『心地』等の上生兜率の諸教、先に滅す。故に「経道滅尽」と云う。往生西方のこの『経』特り留まる。故に「止住百歳」と云う。まさに知るべし、兜率は近しといえども縁浅く、極楽は遠しといえども縁深し。
四に念仏諸行二行住滅の前後とは、諸行往生の諸教、先に滅す。故に「経道滅尽」と云う。念仏往生のこの『経』特り留まる。故に「止住百歳」と云う。まさに知るべし、諸行往生は、機縁最も浅く、念仏往生は、機縁はなはだ深し。加之、諸行往生は縁少く、念仏往生は縁多し。また諸行往生は、近く末法万年の時に局れり、念仏往生は、遠く法滅百歳の代を霑す。

問うて曰く、すでに「われ慈悲哀愍を以て、特りこの経を留めて、止住すること百歳ならん」と云う。もし爾らば釈尊慈悲を以て、経教を留めたまわば、何れの経、何れの教か留まらざらん。而るに何ぞ余経を留めずして、ただこの『経』を留めたまうや。
答えて曰く、たとい何れの経を留むといえども、別して一経を指せば、またこの難を避けず。ただし特りこの『経』を留める、その深意有るか。もし善導和尚の意に依らば、この『経』の中に、すでに弥陀如来の念仏往生の本願を説けり。釈迦の慈悲、念仏を留めんが為に、殊にこの『経』を留む。余経の中には、いまだ弥陀如来の念仏往生の本願を説かず。故に釈尊の慈悲、以てこれを留めたまわず。およそ四十八願、皆本願なりといえども、殊に念仏を以て、往生の規と為す。故に善導の『釈』に云く。「弘誓多門にして四十八なれども、偏に念仏を標して、最も親しとす。人能く仏を念ずれば、仏また念じたまう。専心に仏を想えば、仏人を知りたまう」。 已上

故に知んぬ。四十八願の中に、すでに念仏往生の願を以て、本願の中の王と為す。ここを以て釈迦の慈悲、特りこの『経』を以て、止住すること百歳なり。例せば彼の『観無量寿経』の中に、定散の行を付属せずして、ただ孤り念仏の行を付属するがごとし。これすなわち彼の仏願に順ずるが故に、念仏の一行を付属するなり。

問うて曰く、百歳の間、念仏を留むべきこと、その理然るべし。この念仏の行は、ただ彼の時機に被るとやせん。はた正像末法の機に通ずとやせん。
答えて曰く、広く正像末法に通ずべし。後を挙げて今を勧む。その義まさに知るべし。

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