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選択本願念仏集 ~ 【第七】光明ただ念仏の行者を摂する篇

第七章段
弥陀の光明余行の者を照らさず、ただ念仏の行者を摂取したまうの文

『観無量寿経』に云わく、無量寿仏に八万四千の相有り。一一の相に、各八万四千の隨形好有り。一一の好に、また八万四千の光明有り。一一の光明、遍く十方の世界を照して、念仏の衆生を摂取して捨てたまわず。

同経の『疏』に云く、「無量寿仏」より、下「摂取不捨」に至る已来は、正しく身の別相を観ずるに、光有縁を益することを明す。すなわちその五有り。一には相の多少を明し、二には好の多少を明し、三には光の多少を明し、四には光照の遠近を明し、五には光の及ぶ所の処、偏に摂益を蒙ることを明す。

問うて曰く、つぶさに衆行を修して、ただ能く回向すれば。皆往生を得。何を以てか、仏光普く照すにただ念仏の者のみを摂する、何に意有るや。

答えて曰く、これに三義有り。一に親縁を明す。衆生、行を起して口常に仏を称すれば、仏すなわちこれを聞きたまう。身常に仏を礼敬すれば、仏すなわちこれを見たまう。心常に仏を念ずれば、仏すなわちこれを知りたまう。衆生仏を憶念すれば、仏また衆生を憶念したまう。彼此の三業相い捨離せず。故に親縁と名づく。二に近縁を明す。衆生仏を見んと願ずれば、仏すなわち念に応じて、目前に現在す。故に近縁と名づく。三に僧上縁を明す。衆生称念すれば、すなわち多劫の罪を除く、命終らんと欲する時、仏聖衆とともに自ら来って迎接したまう。諸邪業繋、能く礙うる者無し。故に僧上縁と名づく。自余の衆行も、これ善と名づくといえども、もし念仏に比すれば、全く比校に非ず。この故に諸経の中に、処処に広く念仏の功能を讃ず。『無量寿経』の四十八願の中のごとき、ただ専ら弥陀の名号を念じて生ずることを得と明す。また『弥陀経』の中のごとき、一日七日専ら弥陀の名号を念じて生ずることを得。また十方恒沙の諸仏、虚しからずと証誠したまう。またこの『経』の定散の文の中に、ただ専ら名号を念じて、生ずることを得と標す。この例一に非ず。広く念仏三昧を顕し竟んぬ。

『観念法門』に云く、また前のごとく、身相等の光、一一遍く十方世界を照らす。ただ専ら阿弥陀仏を念ずる衆生のみ有って、彼の仏の心光常にこの人を照して、摂護して捨てたまわず。すべて余の雑業の行者を、照摂することを論ぜず。

私に問うて曰く、仏の光明、ただ念仏の者のみを照らして、余行の者を照らさざるは、何に意有りや。

答えて曰く、解するに二義有り。一には親縁等の三義、文のごとし。二には本願の義、謂く余行は本願に非ず。故にこれを照摂せず。念仏はこれ本願なり、故にこれを照摂す。故に善導和尚の『六時礼讃』に云く、「弥陀の身色金山のごとし。相好の光明十方を照らす。ただ念仏のみ有って、光摂を蒙る。まさに知るべし。本願最も強しと為す。」 已上  また引く所の文の中に、「自余の衆善は、これ善と名づくといえども、もし念仏に比すれば、全く比校に非ず」と言うなりとは、意の云く、これ浄土門の諸行に約して比論する所なり。念仏は、これすでに二百一十億の中に、選取する所の妙行なり。諸行はこれすでに二百一十億の中に、選捨する所の粗行なり。故に「全く比校に非ず」と云う。また念仏はこれ本願の行、諸行はこれ本願に非ず。故に「全く比校に非ず」と言う。

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