御忌会
御忌の鐘 ひびくや谷の 氷まで
江戸中期の俳人・与謝蕪村の名句です。法然上人忌日の1月25日、凍てついた渓谷の静けさを破り、氷すら震わせ響き渡る大梵鐘の音が聞こえてきそうな臨場感があります。
上人が亡くなって800年以上を経ても変わらない、報恩と思慕の想いから続く御忌。その根底には、すべての人が救われなければならないとする上人の熱くて深い、慈悲の心がありました。
法然上人その人・その教え
「厳しい修行を積み、欲望を捨て去らなければ、苦しみを脱することはできない」とするのが常識だった、上人在世当時の仏教。しかしそのころは、飢饉や戦乱、天災などで世の中は混乱しており、多くの人はその日の糧にすら困窮、とても仏道を修めるどころではありませんでした。法然上人は、そのような世にあって、誰もが希望を持って生きていける、そして誰にでも修められる、そんな教えはないのかと求道の歳月を重ねていました。
確信の持てる教えとの出会いは43歳の春に訪れます。
「南無阿弥陀仏」ととなえれば、必ず阿弥陀如来の導きをうけ、やがて極楽に生まれ往くことができる―。
「称名念仏」の教えを掲げ、浄土宗を開かれます。ときに平安時代末期の承安5年(1176)。出家得度してから30年の星霜が流れようとしていました。
或人、法然上人に「念仏の時、睡におかされて、行を怠り侍る事、いかがして、この障りを止め侍べらん」と申しければ、「目の醒めたらんほど、念仏し給え」と答えられたりける、いと尊かりけり。
こちらは、鎌倉末期の吉田兼好の随筆『徒然草』の一節。お念仏の最中、眠くて眠くて仕方ない場合にはどうすればよいかと問われた法然上人、「目が覚めたらまたとなえなさい」と。こんな問答が交わされたことを知った兼好は「なんと尊いことか」と上人を讃えています。
上人は1日に6万遍から7万遍ものお念仏をとなえ、まさに念仏一途に阿弥陀如来と歩む、そうした毎日を送られていました。しかし、人にそれを強いるようなことはなく、個々の状況や生活スタイルに応じてとなえるよう、アドバイスされていました。『徒然草』の話は、その人柄が偲ばれてあまりあるエピソードといえそうです。
御忌の由来
法然上人が浄土宗を開いてから、お念仏の教えはそう時間を要することなく、各地に広まりました。「誰にでも」というやさしい教えであったことはもちろん、きっと上人のお人柄にじかに触れ、あるいは耳にして、という人も少なくなかったに違いありません。そんな上人を、滅後も慕い、恩に報いたいとの思いが人々の心に芽生えたのはごく自然のことだったでしょう。建暦2年(1212)、上人は80歳で往生されます。御廟所(墓所)には大勢の弟子や上人を慕う人々が集い、毎月・毎年の忌日には法要「知恩講」が勤められました。これが「御忌」のルーツともいえるでしょう。
上人の忌日法要を正式に「御忌」と呼ぶようになったのは戦国時代の大永3年(1523)、後柏原天皇が知恩院に送った詔書に「毎年1月、京都とその周辺地域の浄土宗僧侶を集め、〝法然上人御忌〟として7日間勤めよ」とあることによります。「御忌」は天皇や皇后、また高僧などの年忌法要を指す語でしたが、江戸時代になると〝「御忌」といえば法然上人の忌日法要〟と一般に定着、春の季語としても親しまれるようになります。
盛大に厳かに
着だおれの 京を見に出よ 御忌詣(几董)
知恩院では毎年盛大に法会が営まれたようですが、ほかの大本山はじめ各地の浄土宗寺院でも行われるようになりました。
江戸やその近郊で行われる年中行事を解説した江戸時代後期成立の『東都歳時記』には、増上寺での御忌の模様が「正月(1月)二十五日」の日付とともに描かれています。三門から大殿へと進む、大名行列と見まがう練行列、それを見守る大勢の人々。当時から御忌は、盛大で厳かな一大法要であったことが見て取れます。
厳寒1月の上人の忌日前後に勤められてきた御忌ですが、明治10年(1877)、知恩院が4月に変更してから、5つの大本山でもそれに倣って4月に執り行うようになり、今日に至っています。
時代を経るなか、時期や規模に変化はみられても、御忌という法要に込められた法然上人に対する報恩の想いは変わることはありません。知恩院の日中法要では上人への想いをしたためた美しい文の
「諷誦文」が唱えられ、他の法要でも聲明や散華などによってそれを表現しています。
法然上人が浄土宗を開かれて遥かな時間が過ぎた今日も、その教えは決して色あせることなく、私たちに寄り添ってくれています。そこには、在りし日の上人の〝すべての人が救われなければならない〟との想いが、変わることなく息づいているからにほかなりません。
その想いをいただき、お念仏をとなえ、阿弥陀仏に導かれつつ日々を歩む―。御忌を迎えるにあたり、そのことを、あらためて心に刻みたいものです。