浄土宗の法話:2017年06月

お念仏なればこそ

 法然上人のお言葉(意訳)の中に
「お念仏はきんのようなものです。金は火に焼かれても焦げることなく、ますます色を増して輝き、水に浸し放っておかれても、錆びつき、腐り、朽ち果てることはありません。
同じようにお念仏は、煩悩、妄念の心で申しても、焦げつき、錆びつき、穢れ、朽ち果てたような虚しいお念仏になるわけではありません。
金が水に浸されてもなんら変わることなく、炎の中でもますます輝きを増すように、煩悩、妄念のどんな心でありましても、お念仏による阿弥陀さまの導きは全く変わることのない、それどころかますます輝きを増すように力強くお手引き下さるのです。
どんな時でも、どんな場所でも、どのような姿、心で申しても、すべて往生の行となっていくのです」とあります。
法然上人には実にさまざまなお弟子がいました。その中に耳四郎という大盗賊がいましたが、大改心、大転換をして上人のお弟子となり、「教阿弥陀仏」と言われるほどの念仏者となったのです。
ところが、以前の悪友たちがそれを妬み、危害を加えようと、ある夜、寝入っている耳四郎の寝室へと忍び入ったのです。そして、今こそと刀を抜き、頭からかぶっている布団を引きはがしてみると、現れたのは耳四郎ではなかったのです。全身金色の仏さまが横たわり、出入りの息が南無阿弥陀仏…と聞こえたのです。
悪友たちは驚き、それによって耳四郎本人も驚き目覚め、互いに抱き合ってお念仏の尊さを喜びあい、耳四郎自身はますます信仰を高め、悪友たちは善心に立ち還ったという話が伝わっています。
この話は、耳四郎という我欲のために人を泣かせ苦しめ続けた、まさに煩悩まみれの人間でありましても、信じ仰いでお念仏申し続けていくならば、必ず阿弥陀さまの導きを受けて、人柄、人格、生活、生き様までも大転換させていただけることを示して下さっているのです。
お念仏なればこそ、この身、この心、このままで大丈夫なのです。導かれていくのです。お念仏申して生き往きましょう。

合掌
北海道第一教区 小樽組 長昌寺 麻上昌幸

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