私たちの価値

娘が生まれて4年が経ちました。まだまだ可愛い盛りですが、子どもを育てる楽しさと難しさを日々感じています。

みんなにあいさつできたの? えらいねぇ
お友達に分けてあげたの? いいことをしたねぇ
ひらがなで名前が書けるの? すごいねぇ
おくつはそろえられた? りっぱだねぇ

というように、ほめたり、なだめたりしながら、妻とともに二人三脚で(実際は妻におんぶにだっこで?)親として成長させていただいています。自分もこのようにして見守られ、世話をかけていたのかと思うと、両親に対しても自然と感謝の念が沸き上がります。

しかし、娘が生まれるときは「元気に生まれてきてくれれば」とそれだけしか願いませんでした。ところが、有り難いことに、無事に生まれ、大きくなるにつれて、○歳までにはこれができるようになっていてほしいとか、誰にでも元気よく挨拶ができるようになってほしいとか、お行儀よくいてほしいとか、いつの間にかあれこれ注文をつけるようになっている自分がいました。
親としては当然なのかもしれませんが、頭の中の「いい子像」と比べて、ウチの子はまだまだだ、とか、ここが足りないとか、今でもつい思ってしまいます。しかも、その「いい子像」は社会的に望ましい姿であることがほとんどです。今では、手のかからない、というのが「いい子」であるかどうかの判断材料であるように思います。

「僕は忘れたくない。ルールに服従した周囲の人々の姿を。そしてそれを見た時の自分の驚きを。病人のみならず、健康な者の世話までする人々の疲れを知らぬ献身を。そして夕方になると窓辺で歌い、彼らに対する自らの支持を示していた者たちを。(略)
僕は忘れたくない。結局ぎりぎりになっても僕が飛行機のチケットを一枚、キャンセルしなかったことを。どう考えてもその便には乗れないと明らかになっても、とにかく出発したい、その思いだけが理由であきらめられなかった、この自己中心的で愚鈍な自分を。(略)
僕は忘れたくない。パンデミックがやってきた時、僕らの大半は技術的に準備不足で、科学に疎かったことを。
僕は忘れたくない。家族をひとつにまとめる役目において自分が英雄的でもなければ、常にどっしりと構えていることもできず、先見の明もなかったことを。必要に迫られても、誰かを元気にするどころか、自分すらろくに励ませなかったことを」

先日、とある講座で一席お話をさせていただきました。テーマは、元気な高齢者に社会参加をすすめる、つまり、定年後の第二の人生を社会のために役立てよう、という内容のものでした。
社会に役立つことをする、聞こえはいいですが、逆に言えば、これを推し進めると、社会に役立たない(と思われている)人は居場所がなくなることになります。相模原の障害者施設での痛ましい事件の背景には、生命の価値に対して、犯行に及んだ人物にそのような視点があったことは報道で知られているところです。

私たちは、ややもすると生産性や貢献度など、どれだけ人の役に立ったか、逆にどれだけ人に迷惑をかけなかったか、そういった物差しで人の価値を測ってしまいがちです。
でも待ってください、人の存在価値は誰かの役に立つからあるのでしょうか? 誰の役にも立たない人は、用なしなのでしょうか? そもそも「役に立つ」とは何なのでしょうか?
結局、その講座では、最後に、「実はここから先は原稿にないのですが…」と切り出して、次のように付け加えて閉じさせていただきました。

社会に役立つことは素晴らしいことかもしれません。でも、できなかったからといって自分を卑下したり、できない他人をダメだと思ったりしないでください。社会貢献しようとしまいと、みなさん自身が存在している価値はそれとは別にあるのですから。生きているだけで、すでに十分尊いと思いますよ

自宅に帰ると、玄関には脱ぎっぱなしの靴がありました。
私は笑って娘を抱きしめました。

(2020年9月23日 高瀨顕功 / 静岡・法源寺 ひとさじの会代表)