春のざわつき

くしゅん。
また、春が来ました。
花粉症を自覚しているはずなのに、くしゃみやムズムズ、かゆみが起こるまで、今年も春が来るということをまるで忘れていたかのようです。慌ててティッシュを引き出してきたり、薬を飲み始めたり。そうして2か月に及ぶ苦しみを終える頃、緑は強くなり、日差しは暑さを増して、何の名残惜しさもないかのように春は別れを告げていきます。

10年前も、きっとそうだったのでしょう。
3月11日。テレビの向こうでは、ちらちらと雪が舞っていました。春というよりは、まだ冬の景色。グレーの空が重く、波はドロドロになって、色のない画面が心にズドンと押し寄せました。部屋には、冷めたコーヒーのカップが、ただただ何時間もそこにあり、サブロウと呼んでいた小さな黒猫はじっと寝ているばかり。ときおり鼻をかみながら、あぁー・・・、はぁー・・・、とため息を漏らすことしかできなかった私。

時は、過去に戻ることはありません。
当時のテレビは壊れて、新しくなりました。サブロウも天寿を全うし、この世にはもういません。窓から見えるソメイヨシノや木蓮の木も、心なしか、花をつける勢いがじわじわと細っています。これが、10年という時間の長さなのでしょうか。3億1536万。秒数にすると、膨大な桁の無機質な数字。

記憶はどんどん上塗りされ、ところどころあの日の出来事も、春の霞の月のように、おぼろげに、はかなげになっていきます。無常。すべては一時として同じ状態ではなく、常に変化し続ける。それは一方で、むなしく、せつなく。けれど、私たちは忘れることができるから、楽になり救われるという生き物。執着と忘却のはざまでひらひらと舞う姿は、さながら蜜を求めてさまよう蝶々のような。

でも、ここ最近、ふと息苦しく感じるのはなぜでしょう。
去年から、肌身離さずつけている、マスクのおかげ?
毎年やってくる、花粉のせい?
それとも、10年という何かの区切りを、早急にせかされ、求められているような、社会の雰囲気に?

もやもや、ざわざわ。
何かすっきりしない、こころの声が、今年も訪れた春の季節とともに、その音を大きくしています。
だけど、あえてボリュームは下げないでおこう。
気長に、いっしょに、自然体で。花粉症との長いお付き合いのように、素直な気持ちをずっと受け止めてくれる仏様が、目の前にいるから。

(2021年3月8日 山下千朝 (僧名:華朝/浄土宗僧侶、Amrita株式会社代表取締役))