今月の言葉

2025年4月:呼ぶ喜び 呼ばれる嬉しさ

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呼ぶ喜び 呼ばれる嬉しさ

Talking to someone for the first time takes courage, but can also be the beginning of a good relationship.

皆さんの春の楽しみは何でしょうか。ある時テレビで、桜の開花予報に従って日本列島を南から北へと車中泊で移動して楽しんでおられる方が取り上げられていました。

話の中でその方は、「桜もそれぞれ。小さい桜もあれば大きな桜もある。でも同じ桜であることに違いはない」と話されました。振り返ってみると2020年の春から数年、私たちは桜見物すらままならず、家に籠り、未知のウイルスに怯える日々を送っていました。この〝まさかの事態〟に世の無常を実感したと言えるかもしれません。その後も世界では、戦争や天災地変が続くなか、あるお医者さまが、不安定な世を生きていくことに対して「心に拠り所がある人はいつもしなやかだ」と言われたそうです。この「しなやか」は少々のことではぶれない心のふり幅と生命力ということだそうです。

仏教の教えに「所縁(サンスクリット語:アーランバーナ)」ということばがあります。所縁とはすがりつくもの、拠り所とするものを表しています。それがないと心の姿が決まらない、しなやかに生きていくことができない、そのようなものです。宗祖法然上人が北条政子の念仏往生についての質問へ答えた書簡のなかで「ただ浄土を心にかくれば、心浄の行法にて候なり」と語られています。これは、心の所縁であるお浄土を拠り所とし、お念仏の行を励むことで、阿弥陀さまのお浄土への往生がより確実なものになるということです。「南無阿弥陀仏」と阿弥陀さまの名を呼ぶことができることは、この世での大きな喜び。それが誰の声であろうと聞いてくださり、一人も漏らさずお浄土へ迎えとっていただけるという嬉しさ、それは、私たち念仏者にとって何にもかえがたい無上なものといえましょう。

冒頭の桜の話と同じように、私たちの人生のあり様もさまざまです。しかし、その一人一人が阿弥陀さまを頼み信じてお念仏して生きていくならば、愚かな私たちであっても阿弥陀さまは大慈大悲のこころで救い取ってくださるに違いありません。たとえ行き詰まることがあっても念仏者には拠り所がある、たとえ苦労、苦痛が起きたとしてもなお心を満たす大きな安らぎがあるのです。


(福岡県鞍手町 円宗寺 福田至誓)