2025年5月:完璧でないから つながれる
人類は長きにわたり科学技術や文明を発展させ、より良い生活や社会の構築を目指してきました。
その一方で、私たちの世界は天災や疫病、戦争といった災禍を幾度となく経験してきました。そして、そのたびに人間の有限さ(限界があること)や未熟さを痛感させられてきました。繰り返される苦しみや悲しみを目の当たりにした時、私たちは希望を失い、時には生きる気力さえ失ってしまうこともあります。
日本の仏教において、誰よりも人間の有限さや未熟さと向き合ったのが、浄土宗を開かれた法然上人です。
法然上人は9歳にしてお父さまを非業の死で亡くされ、15歳で仏教を学ぶため比叡山に登られました。そこでの約30年間に渡る修学の中で、全ての経典を5度にわたり読破され、「智慧第一の法然房(最も智慧のあるお方)」と評されるほど学問を究められました。
そんな法然上人ですが、自身は、戒律の一つも満足に守ることができず、心を静める修行を一度も満足に行うことができず、正しい智慧を体得することなどできない存在であると述懐され、「悲しきかな、悲しきかな。いかがせん、いかがせん」と自身のお姿を嘆かれました。
完璧でないどころか、何一つ満足に物事を成し遂げることができないのが私たち人間の本当の姿なのかもしれません。それでも人類は人間の有限さや弱さを痛感し、それを受け止めたからこそ前に進むことができました。
法然上人は嘆き悲しみながら経典と向き合った末に、人間は誰もが完璧ではなく、この世では自分の力でさとることなど難しい存在であると確信されました。だからこそ、「南無阿弥陀仏」とおとなえすれば阿弥陀さまのお慈悲により誰もが等しく救われるお念仏の教えにより、浄土宗を開かれたのです。
私たちが法然上人ほどの偉業を成すことは難しいかもしれません。それでも、自身の至らなさや人間の有限さを認識することは、他者の存在の大切さを知ることにつながります。
他者を尊重し、多様な存在や在り方を認める寛容さや優しさは、ひいては人々がつながり、支えあって生きていくことのできる社会、そしてそれを認めあえる世界を創っていくことにつながるのではないでしょうか。
(愛知県知立市 了運寺 近藤修正)