2026年7月:思い思われ 手を合わす
このテーマで、真っ先に思い浮かんだのは、亡き父のことでした。
父は私の師匠であり、人生の道しるべでしたが、私が高校生のとき、突然、この世を去りました。あまりに早い別れに、悲しみと不安で押しつぶされそうになっていた翌朝、夢の中に父が現れました。穏やかな表情で「お前の好きなように生きなさい」と言い残し、去っていきました。
私はその言葉を胸に、お寺を継ぐ決意をしました。しかし、どれほど時が過ぎても、一つの後悔が消えませんでした。「孝行したいときには親はなし」。私は父に何一つ恩返しができなかったという空虚感が、ふとした瞬間に押し寄せてくるのです。
しかし、檀信徒の方々と向き合う中で、私はあることに気づかされました。大切な方を亡くされた方の苦しみを前に私ができることは、静かに寄り添い、共に阿弥陀さまの手を仰ぐことだけでした。悩み、惑い、時に涙する姿に自分を重ねるうち、父が遺した言葉は、私を一人にする孤独な自由ではなく、「どんな時も独りではない」という、父からの深い慈しみのサインだったのではないかと感じるようになりました。
そして、私にできることは、特別な何かではなく、阿弥陀さまの前でお念仏をとなえることなのだと気がつきました。「阿弥陀さま、父をどうかよろしくお願いいたします」と願い、日々手を合わせることが、父との対話なのだと腑に落ちました。
その願いの中、さらに深いことに気づかされました。手を合わせるとき、それは「一方的な行い」ではないということです。私たちが亡き人を想い、仏さまに手を合わせる時、亡くなった方、そして阿弥陀さまも、手を合わせるかのように、いつも温かい願いをこちらへ向けてくださっている。
私たちが誰かを想うとき、その誰かからも想われている。この「思い思われ」こそが、お念仏の救いではないでしょうか。阿弥陀さまは、私たちが悲しみに沈むときも、いつもこちらを向いていてくださるのです。
手を合わせる場所は、過去と現在、そして仏さまの世界が一つに重なる場所です。父が自由を与えてくれたように、私も皆さまと共に手を合わせ、阿弥陀さまの慈悲の中にいることを、分かち合っていきたいと願っています。
(佐賀県佐賀市 竈王院 稲葉光俊)