浄土宗新聞

心ゆくまで味わう 法然さまの『選択集』 第27回

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浄土宗で〝第一の聖典〟と位置づけられる書物『選択本願念仏集』(『選択集』)。「極楽往生を遂げるためには、何より〝南無阿弥陀仏〟とお念仏をとなえること」とする浄土宗の教えを、宗祖法然上人(1133ー1212)が微に入り細に入り説き示された「念仏指南の書」ともいえるものです。大正大学教授・林田康順先生に解説していただきます。

第4章
三輩念仏往生の文

||味わい方

このコーナーでは、『選択集』の現代語訳と林田先生による解説を掲載しています。
現代語訳部分は、篇目(章題)、引文(内容の根拠となる文章の提示)、私釈(引文に対する法然上人の解釈)で構成されています。

前回

前号で法然上人は、『無量寿経』の上輩・中輩・下輩にお念仏以外の行が説かれる理由について、① 廃立の義、② 助正の義、③ 傍正の義、という3種を提示されました。今回は、①廃立の義についてです。

【私釈】

第一の「廃立の義」とは、諸行を修めることを人々にやめさせて(廃)、最終的にはお念仏一行に帰依させるため(立)に、あえて諸行を説いているということです。善導大師は『観経疏散善義の中に「『観無量寿経』のなかで釈尊は、心を静めて阿弥陀仏の姿や極楽浄土の様相を観想する〈定善〉の行や日常の心のままで修められる〈散善〉の行を実践することによってもたらされるさまざまな功徳について説き明かされてきたものの、阿弥陀仏が誓われた第十八・念仏往生願の意趣をつつしみ敬って推し量ってみるならば、釈尊の本意は、すべての衆生にただひたすら阿弥陀仏の名号をとなえさせることにある」と述べられています。

善導大師によるこの解釈の意図に照らし合わせて、この『無量寿経』の三輩の文言を理解するならば、釈尊が上輩の中に菩提心(さとりを目指す心)をおこすなどの種々の行を説かれているとはいっても、念仏往生願を推し量らせていただくならば、その本意は、すべての衆生にただひたすら阿弥陀仏の名号をとなえさせることにあると知ることができます。

しかも、念仏往生願の中には、お念仏以外の行は誓われていません。ですから、上輩・中輩・下輩ともに阿弥陀仏の本願に基づいているので、経文の中に「一向専念無量寿仏(心を一つにしてただひたすら阿弥陀仏の名号をとなえる)」と示されているのです。

【解説】

ここで法然上人は、善導大師の『観経疏』の一節を引用されます。これは、釈尊が阿難尊者に対して、後の世にお念仏を伝え遺すようにと指示された『観無量寿経』末尾の一文について、善導大師が阿弥陀仏の本願と照らし合わせて解釈されたもので、法然上人は後の12章段の引文にも据えられます。ここで大師は、『観無量寿経』に説かれるお念仏とその他の行の関係について、実際の経文中にはない「一向(ひたすらに)」という言葉を用いて、ただひたすらお念仏一行を修めるべきことを訴えられます。法然上人は、こうした「一向」の用いられ方が、『無量寿経』の三輩の文に説かれる「一向」にもあてはまることを見出し、加えて阿弥陀仏の第十八・念仏往生願にお念仏以外の行が誓われていないことを鑑かんがみた結果として、廃立の義を立てられたのです。

【私釈】

経文の中にある「一向(ひとすじに、ひたすらに、純粋に)」とは、「二向(ふたすじに)」や「三向(みすじに)」などに対する言葉です。それは、かの五天竺(インド)に次の3種類の寺があるようなものです。

一つには「一向大乗寺」です。この寺では、ただひたすら大乗仏教を学び、小乗仏教を学ぶことはありません。二つには「一向小乗寺」です。この寺では、ただひたすら小乗仏教を学び、大乗仏教を学ぶことはありません。三つには「大小兼行寺」です。この寺では、大乗仏教も小乗仏教も兼ねて学びます。ですから「兼行寺」というのです。

こうしたことから、まさに大乗仏教や小乗仏教をただひたすら学ぶ2種の寺には「一向」の言葉がありますが、大乗仏教も小乗仏教も兼ねて学ぶ寺には「一向」の言葉がないことを知らなければなりません。

【解説】

続いて法然上人は、天台宗の祖・最澄が撰述した『山家学生式』や『顕戒論』などに説かれる、❶一向大乗寺、❷一向小乗寺、❸大小兼行寺を紹介します。

これらの中では、❶一向大乗寺は文殊菩薩を本尊として祀まつり、❷一向小乗寺は賓頭盧尊者を本尊として祀り、❸大小兼行寺は文殊菩薩と賓頭盧尊者の両者を祀る、と説かれています。文殊菩薩は、釈尊の脇侍として獅子の背に乗った姿でよく描かれ、「三人寄れば文殊の智恵」ということわざでも知られ、ここでは大乗仏教の象徴として取り上げられているようです。また賓頭盧尊者は釈尊の弟子の一人で、撫でると病気が治るとされる「おびんづるさん」としても親しまれ、小乗仏教の象徴として取り上げられています。

『選択集』でも度々登場する大乗と小乗ということばですが、大乗とは、すべての命ある者を積極的に救済することを目指す教えを大きな乗り物に例えた呼称で、浄土宗をはじめ日本の各宗もこれにあたります。一方、小乗は、大乗仏教が自分たちの教えを他より優位なものとする視点により古来の仏教を小さな乗り物に例えた蔑称で、現代ではほとんど用いられることはありません。

【私釈】

今、『無量寿経』の中に説かれている「一向」も、これら3種類の寺の呼称の用法と同じです。もし、お念仏以外に他の行を加えてしまえば、「一向」ではなくなってしまいます。

3種類の寺の呼称に準じて理解するならば、「兼行(諸々の行を兼ねて修める)」というべきでしょう。すでに経典の中で「一向」と説かれているのですから、他の行を兼ねていないことは明らかです。さまざまな行を説いているにもかかわらず、最終的には「一向専念」と述べられています。

こうしたことから、諸行を修めることを人々にやめさせて最終的にはお念仏一行をとなえさせるために「一向」と言っていることを明らかに知ることができるのです。もし、そうでないと言うのならば、経典にある「一向」という言葉が、まったくもって理解し難いことになってしまうではありませんか。

【解説】

このように法然上人は、三輩に共通して説かれる「一向」の文を、『観経疏』や『山家学生式』などに示される用例と照らし合わせて、①廃立の義の結論をまとめられました。次回は、②助正の義についてです。

コラム 天竺

玄奘三蔵像・部分(重文・東京国立博物館所蔵Image:TNM Image Archives)
玄奘三蔵像・部分(重文・東京国立博物館蔵・出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/))

天竺とは、かつての中国や日本におけるインドの呼称。インダス河を示す古いインドのことば「ヒンドゥカ」に由来するとされ、『選択集』では「五竺」という名で登場します。

この呼称は、「5つの地域から構成される天竺」の意味で、巨大な山・須弥山(①)を中心に、その東に半月系の勝身洲(②)、南に台形の贍部洲(③)、西に円形の牛貨洲(④)、北に四角形の倶盧洲(⑤)があるとする古代インドの世界観に基づいたもの。須弥山はインド北部にそびえるヒマラヤ山脈、贍部洲はインド亜大陸をそれぞれイメージしています。

かつて多くの僧が、仏さまの教えが書かれた経典を求めて天竺を目指しました。有名な『西遊記』の三蔵法師のモデル、玄奘三蔵もその一人です。

  • 林田 康順(はやしだ こうじゅん)
  • 大正大学仏教学部教授
  • 慶岸寺(神奈川県)住職
  • 法然浄土教、浄土宗学が専門。『浄土宗の常識』(共著、朱鷺書房)、『法然と極楽浄土』(青春新書)ほか、著書・論文など多数。