浄土宗新聞

広島原爆投下から80年 爆の悲惨さ伝え 争いのない世界へ

投稿日時
原爆の犠牲者供養のために念仏をとなえる雅愛師(中央)と雅信師(左奥)

1945年8月6日、人類史上初めての原子爆弾が広島に投下された。死者数は推定14万人ともいわれる。それから80年、被爆者の高齢化が進み、記憶の継承が叫ばれるなか、平和への想いを伝え続ける広島市内の寺院がある。

親から子へ受け継がれる想い 妙慶院

8月6日、中区の妙慶院(加用雅信住職)が犠牲者追悼の勤行を営んだ。
 長老(前住職)の雅愛師を導師に、雅信住職ら家族4人で勤め、木魚に合わせて厳かに念仏したのに続き、原爆が投下された8時15分、鉦の音にあわせて十念をひときわ力強くとなえ、亡くなった人々を供養した。
 家族とともに幼少時に被爆し、その後50年以上平和の実現のために活動をしている82歳の雅愛師は、「若い世代にも原爆と戦争の非人道性を知らせねば」と、惨禍を伝え残すことの重要性を強調する。
 原爆が投下されたとき、2歳だった雅愛師は爆心から1・7㌔の境内で、父とともに爆風や熱線を受けたが、大木の陰にいたおかげで助かった。しかし、本堂前で遊んでいた子どもたちは即死し、本堂も壊滅。母の妙子さんは左目と腹に破片が刺さったものの何とか救出されたが、祖父は猛火に包まれ亡くなった。
 戦後、一家で苦労しながら寺を復興する中で妙子さんは、雅愛師そして孫の雅信師に、辛い体験を涙ながらによく語ったという。「私らは死んでもおかしくなかったのに、生かされたのよ」と。当時の記憶がほとんどない雅愛師は、その言葉に同じく生かされた自分は何をすべきかと考え、浄土宗平和協会や広島長崎宗教者平和会議などの活動に積極的に関わってきた。
 雅愛師は、「広島を訪れた際には、原爆ドームなどをただ見物するだけではなく、我々を人間と思わず殺戮した核兵器の残虐さを考えるきっかけにしてほしい」と訴える。
 その姿を見てきた雅信師は、アートを通じて平和を考えてもらうワークショップへの協力のほか、家庭や世間で苦しむ人の話を聴くことで穏やかになってほしいと、寺を悩みを抱えた人の「居場所」とする傾聴などの取り組みをしている。
 「大きな事はできないが、小さなことでも、争いや苦しみのない平和に寄与していければ」と話す雅信師は、被爆2世として、「まず私自身が原爆の悲惨さを知り、そして機会があれば伝えていきたい」と語ってくれた

被爆の記憶 後世に 禿翁寺

中区の禿翁寺の橋本隆志住職は、祖父母らから聞いた原爆の体験を地元の子どもたちに伝えている。
 爆心地から1・5㌔にある同寺は伽藍が全焼した。寺には、その際の逸話がある。原爆炸裂の直後、祖母ハナヨさんは崩れた本堂の下敷きになった。祖父の法道師は爆風でガラス片を全身に浴びながら妻を探し、声をかけたが返事がない。炎が迫り避難する直前、「南無阿弥陀仏」ととなえると、かすかに応答があり、檀家も手伝って何とか救い出したのだという。
 8年をかけて再建したが、現在も境内には被爆した樹木や、バラバラになったものを修復した地蔵菩薩など、その被害を伝えるものが残っている。
 禿翁寺には、地元の学校だけでなく、20年前から毎年、兵庫県の小学校の子どもたちが修学旅行で訪問しており、橋本師は境内を案内しながら、「原爆は大量無差別殺戮。人間の『欲』が原因で手段を選ばずに殺し合う戦争は絶対にだめだ」と平和の大切さを説く。
 8月3日、同寺では、追悼・平和誓願法要を営み、被爆者遺族などの檀信徒ら約40名が参列した。
 橋本師は、「法然上人の父君の『あだ討ちをするな』という最期の言葉の通り、二度と争いはしてはならない。そのために被爆の惨状を特に若い人に伝える必要がある」と力を込める。

(ジャーナリスト 北村敏泰)