浄土宗新聞

心ゆくまで味わう 法然さまの『選択集』 第11回

投稿日時

浄土宗で〝第一の聖典〟と位置づけられる書物『選択本願念仏集』(『選択集』)。「極楽往生を遂げるためには、何より〝南無阿弥陀仏〟とお念仏をとなえること」とする浄土宗の教えを、宗祖法然上人(1133ー1212)が微に入り細に入り説き示された「念仏指南の書」ともいえるものです。大正大学教授・林田康順先生に解説していただきます。

第2章
善導和尚正雑二行を立てて、しかも雑行を捨てて正行に帰するの文

||味わい方

このコーナーでは、『選択集』の現代語訳と林田先生による解説を掲載しています。
現代語訳部分は、篇目(章題)、引文(内容の根拠となる文章の提示)、私釈(引文に対する法然上人の解釈)で構成されています。

前回

【前回の復習】

 法然上人は、『観無量寿経疏(観経疏)』の内容を引用して、浄土に往生するための行として〈正行〉と〈雑行〉があることを解説されました。今号から、この二つの行がもたらす利益と不利益についての上人による説明が始まります。

【私釈】

次に、〈正行〉と〈雑行〉がもたらす利益と不利益について考えてみると、『観経疏』散善義にある「もし正定業と助業(正行)を修めれば、行者の心は常に阿弥陀仏や極楽浄土に親しみ近づき、阿弥陀仏や極楽浄土への思いを心に長く留め続け、決して絶えることがない。そのためこの行は〝阿弥陀仏との隙間が無い〟という意味で〈無間の行〉と名付けられる。一方、雑行を修めると、阿弥陀仏や極楽浄土に対する行者の思いが途切れた状態が続いてしまう(間断)。そうであるから雑行は、修めた功徳を浄土往生のために振り向ける(回向する)ことによって、往生が叶う可能性は否定できないが、〝浄土往生には疎く、雑多な行〟という意味で、〈疎雑〉の行と名付けられるのである」という文に明らかです。
この文の意図を思案してみると、〈正行〉と〈雑行〉について、次のような5種類の比較(相対)があります。一つは阿弥陀仏との関係が親密であることと疎遠であること(親疎対)、二つは阿弥陀仏に近く隣り合わせであることと遠く離れていること(近遠対)、三つは阿弥陀仏との関係において想いに隙間がないことと隙間があること(無間有間対)、四つは浄土往生のために回向の必要がないことと必要があること(不回向回向対)、五つは阿弥陀仏や極楽浄土に対して純一であることと雑多であること(純雑対)です。

【解説】

法然上人は『観経疏』を熟読した結果、正行と雑行について、親疎対、近遠対、無間有間対、不回向回向対、純雑対という五つの相対関係があることを見いだされました。これは「五番相対」(下図参照)と呼ばれています。

【私釈】

第1に親疎対です。まず〈親〉とは、正定業と助業を修める者は、阿弥陀仏との関係において親しみ深くたいへん和やかな間柄になるということです。
 それ故、『観経疏』定善義の文に「命ある者が、口に声を出して常に阿弥陀仏のお名前をとなえれば、すぐさま阿弥陀仏はその声をお聞きになる。身体で常に阿弥陀仏を礼拝して敬えば、ただちに阿弥陀仏はその姿をご覧になる。心の内に常に阿弥陀仏を念ずれば、阿弥陀仏は即座にその思いを受けとめられる。阿弥陀仏を心の内に長く留めて念ずれば、阿弥陀仏もその者を心の内に長く留めて念じられる。
このように、正定業と助業を修めれば、阿弥陀仏と私たちの身・口・心による働き(三業)は互いに応じ合って決して離れることはない。それ故、阿弥陀仏との関係を親しい縁(親縁)と名づける」と述べられているのです。
次に〈疎〉とは、雑行を修める者と阿弥陀仏との関係をいいます。阿弥陀仏のお名前をとなえなければ、阿弥陀仏もその声をお聞きになることはありません。身体で阿弥陀仏を礼拝しなければ、阿弥陀仏もその姿をご覧になることはありません。心の内に阿弥陀仏を念じなければ、阿弥陀仏もその思いを受け止められることはありません。阿弥陀仏を心の内に長く留めて念じなければ、阿弥陀仏もその者を心の内に長く留めて念じられることはありません。
 このように、雑行を修めると阿弥陀仏と私たちの三業は常に離れてしまうことになります。それ故、雑行のことを〈疎行〉と名づけるのです。

【解説】

まず、親疎対を解説するにあたって法然上人は、『観経疏』定善義に説かれる三縁のうち、親縁の箇所を引用されます。三縁とは、お念仏を中心に阿弥陀仏に向けたさまざまな行を修める者と阿弥陀仏との間に成立する三つのご縁のことです。上人は、阿弥陀仏と念仏者の間に育まれるこの三縁を特に重視しており、のちに7章でも引用されます。
上人は親縁について『往生浄土用心』の中で「善導大師の説かれた三縁のうち、親縁について解き明かせば、衆生(命ある者)が仏を礼すれば、仏はこれをご覧になる。衆生が仏の名をとなえれば、仏はこれをお聞きになる。衆生が仏を念ずれば、仏も衆生を念じられる。それ故、修行をする者と阿弥陀仏の三業が一致し、仏と衆生が親子のようになるので親縁と名づけるのである」と、善導大師の説示を丁寧に整理された上で、阿弥陀仏と念仏者の間に結ばれる「親しい」関係を「親子」の間柄に譬えられます。
「お母さん!」と呼ぶわが子を、母親は全身全霊(三業)を傾けて守るように、阿弥陀仏も念仏者のことをわが子のように見守り続けてくださるのです。

  • 林田 康順(はやしだ こうじゅん)
  • 大正大学仏教学部教授
  • 慶岸寺(神奈川県)住職
  • 法然浄土教、浄土宗学が専門。『浄土宗の常識』(共著、朱鷺書房)、『法然と極楽浄土』(青春新書)ほか、著書・論文など多数。