心ゆくまで味わう 法然さまの『選択集』 第12回
浄土宗で〝第一の聖典〟と位置づけられる書物『選択本願念仏集』(『選択集』)。「極楽往生を遂げるためには、何より〝南無阿弥陀仏〟とお念仏をとなえること」とする浄土宗の教えを、宗祖法然上人(1133ー1212)が微に入り細に入り説き示された「念仏指南の書」ともいえるものです。大正大学教授・林田康順先生に解説していただきます。
第2章
善導和尚正雑二行を立てて、しかも雑行を捨てて正行に帰するの文
⑤
||味わい方
このコーナーでは、『選択集』の現代語訳と林田先生による解説を掲載しています。
現代語訳部分は、篇目(章題)、引文(内容の根拠となる文章の提示)、私釈(引文に対する法然上人の解釈)で構成されています。
【前回】
今号も、善導大師著『観無量寿経疏(観経疏)』(下段、Q&A参照)にもとづいた正行と雑行がもたらす利益と不利益についての法然上人の説明が続きます。
【私釈】
第2に近遠対です。〈近〉とは「正行(正定業と助業)を修める者は、阿弥陀仏との関係が極めて近くなり、隣り合わせのような間柄になる」ということです。
それ故、善導大師の『観経疏』定善義に「命ある者が阿弥陀仏にお目にかかりたいと願えば、阿弥陀仏はすぐさまその思いに応え、目の前に現れてくださる。ですから、阿弥陀仏との関係を、近しい縁(近縁)と名づける」と述べられているのです。
次に〈遠〉とは、雑行を修める者と阿弥陀仏との関係をいいます。命ある者が、阿弥陀仏にお目にかかりたいと願わなければ、阿弥陀仏もその思いに応えることはなく、目の前に現れてくださることはありません。それ故、雑行のことを〈遠行〉と名づけるのです。
『観経疏』散善義に「親しみ近づき」と書かれていることから、〈親〉と〈近〉を一つの意味にまとめてしまいそうですが、善導大師の意図によれば、〈親〉と〈近〉は二つに分けられます。そのことは親縁と近縁について書かれたそれぞれの文から知ることができます。ですから、両方の文を引用したのです。
【解説】
このように法然上人は、正行を修めれば阿弥陀仏にまみえることができると示されました。上人はご臨終の直前、傍らの弟子たちに「長年となえた念仏の功徳が積もり、ここ十数年来、極楽の荘厳や阿弥陀仏、諸菩薩のお姿を常日ごろから、間近に拝見していました」とおっしゃっています。また『選択集』を執筆された建久9年(1198)以降、極楽の荘厳をご覧になった体験をまとめた『三昧発得記』という本もあります。私たちは、法然上人のように阿弥陀さまを拝することはできませんが、阿弥陀さまはすぐそばで優しく見守っていてくださっているのです。
【私釈】
第3に無間有間対です。まず〈無間〉とは、正行を修める者は、阿弥陀仏や極楽浄土に向かう思いを心に長く留め続け決して途絶えることがありません。それ故、『観経疏』散善義に「阿弥陀仏との隙間がない〈無間〉の行と名付けられる」と記されているのです。
次に〈有間〉とは、雑行を修める者は、阿弥陀仏や極楽浄土に向かう思いが常に途切れた状態が続いてしまいます。それは、同じく散善義に「思いが途切れ続けてしまう」と記されているとおりです。
【解説】
法然上人は「正行は浄土への想いに間なし、雑行はその想いが間断す」との言葉を残されています(『十七条御法語』)。つまり、正行を修める者の阿弥陀仏への思いは、かけがえのない愛しい方への思いが、四六時中脳裏から離れないようなものなのです。
【私釈】
第4に不回向回向対です。まず〈不回向〉とは、正行を修めれば、その功徳を浄土往生に振り向けること(回向)をせずとも、おのずと浄土に往生するためのつとめとなります。
それ故、『観経疏』定善義に「今、『観無量寿経』に説き示されている、〈南無阿弥陀仏〉と声に出して十遍となえる行為には、浄土への往生を求める10の願いと、そのための10の実践が具わっている。それは次の理由による。〈南無〉という言葉には、仏やその教えに心から従うという思い(帰命)が込められ、また浄土往生を願う心をおこし(発願)、修めた功徳を浄土往生に回向するという意味合いが含まれている。また〈阿弥陀仏〉の名をとなえることは、行を修めることに他ならない。
このような意味合いが〈南無阿弥陀仏〉ととなえることの中に収められているので、念仏をする者は必ず浄土往生を遂げられる」と述べられているのです。
次に〈回向〉とは、雑行を修める者は、あえて回向をしないと、その行いが浄土往生の契機にはなりません。それ故、同じく散善義に「修めた功徳を極楽浄土に振り向ければ(回向)、浄土往生がかなう可能性を否定できないものの……」と述べられているのです。
【解説】
そもそも正行は阿弥陀仏や西方極楽浄土に向けた行ですから、その功徳をあえて西方に回し向ける必要はありません。しかし、それ以外の雑行、例えば東方にある薬師如来の浄土に向けた行を修めた場合、功徳を東から西へと回し向ける必要があるのです。
ちなみに、さとりを目指す者にとって、その決意を表した「誓願」と、それを実現するための「修行」が不可欠とされています。それは往生を目指す私たちにとっても変わりありません。ですから善導大師は、お念仏の中に願い(誓願)と実践(修行)が具わっていると説かれたのです。
次回は五番相対の最後、純雑対についてです。
Q&A 教えて林田先生
法然上人がたびたび引用されている善導大師の『観無量寿経疏(観経疏)』とはどのような書物なのですか?
『観経疏』は4巻からなり、浄土宗がよりどころとするお経の一つ『観無量寿経』の注釈書です。大師は、他の諸師による解釈では阿弥陀仏の大慈悲は明らかにならないと判断されました。そしてその本願にもとづく称名念仏によって、命あるすべての者の浄土往生がかなうとし、『観無量寿経』の真意を明らかにすべくこの本を書かれたのです。法然上人はこの『観経疏』にもとづいて浄土宗を立教開宗されています。
- 林田 康順(はやしだ こうじゅん)
- 大正大学仏教学部教授
- 慶岸寺(神奈川県)住職
- 法然浄土教、浄土宗学が専門。『浄土宗の常識』(共著、朱鷺書房)、『法然と極楽浄土』(青春新書)ほか、著書・論文など多数。