浄土宗新聞

心ゆくまで味わう 法然さまの『選択集』 第20回

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浄土宗で〝第一の聖典〟と位置づけられる書物『選択本願念仏集』(『選択集』)。「極楽往生を遂げるためには、何より〝南無阿弥陀仏〟とお念仏をとなえること」とする浄土宗の教えを、宗祖法然上人(1133ー1212)が微に入り細に入り説き示された「念仏指南の書」ともいえるものです。大正大学教授・林田康順先生に解説していただきます。

第3章
弥陀如来余行を以て往生の本願となしたまわず。唯念仏を以て往生の本願となしたまえるの文

||味わい方

このコーナーでは、『選択集』の現代語訳と林田先生による解説を掲載しています。
現代語訳部分は、篇目(章題)、引文(内容の根拠となる文章の提示)、私釈(引文に対する法然上人の解釈)で構成されています。

前回

法然上人が創唱された「選択思想」の根本は、阿弥陀仏による"選び取り〟と〝 選び捨て〟です。前号で上人は、阿弥陀仏の第十八・念仏往生願において、極楽浄土往生するための行をめぐり、阿弥陀仏が他の一切の行を選び捨て、お念仏一行を選び取られたことを丁寧に解説されました。今号も引き続き第十八願についてです。

【私釈】

阿弥陀仏の四十八願の中、五つの願を取り上げて、簡略に〈選択〉について論じてきましたが、その意義は前述した通りです。残りの四十三の願については、それら五つの願に準じて理解すべきです。

【解説】

阿弥陀仏の四十八願は、大きく次の3種に分類されます。
①この上ない仏を目指して立てられた願
②この上ない浄土の建立を目指して立てられた願
③すべての命ある者の救済を目指して立てられた願

しかし、突き詰めれば、そのすべてが私たち一人ひとりのために選び取られた願といえるのです。
続いて法然上人は、問いと答えという形式で、第十八願にこめられた阿弥陀仏の真意に迫ります。

【私釈】

〈質問します〉阿弥陀仏の四十八願すべてにわたり、粗雑で悪いものを選び捨て、霊妙で善いものを選び取られていることは理解しました。では、なぜ第十八願において、他のすべての行を選び捨て、お念仏一行のみを選び取って浄土往生の行として本願に誓われたのでしょうか。

〈お答えします〉仏の尊い御心は推し測りがたく、たやすく理解できるものではありません。しかし今、試みとして「修行の功徳に優劣の差異がある」 という側面(勝劣の義)、「仏道(実践)にはやさしいものと難しいものがある」という側面(難易の義)から、ひもといてみましょう。

【解説】

第十八願をめぐる解説で法然上人は、阿弥陀仏が極楽浄土に往生するための行としてお念仏一行だけを選択された理由について、第一願から第四願において言及していた「善悪・粗妙・好醜・清浄不清浄」といった価値判断をあえてされませんでした。

法然上人は、その理由について、答えの冒頭に「仏の尊い御心は推し測りがたく、たやすく理解できるものではありません」と謙虚な姿勢を保ちつつ、勝劣と難易という二つの意義を通じて阿弥陀仏による選択の姿勢を説き明かされるのです。

【私釈】

はじめに「勝劣の義」とは、お念仏には勝れた功徳があり、その他の諸行は劣った功徳にとどまるということです。何故かといえば、阿弥陀仏の名号にはありとあらゆる救いの働きの功徳が込められているからです。

すなわち、阿弥陀仏が自らの内に体得されている、
①清らかな四つの完全なる智慧(四智
②3種類の仏のお身体とその特性(三身
③10種の正しい智慧の力(十力
④説法する際のゆるぎない四つの自信(四無畏

などのすべての功徳、そして阿弥陀仏が外に働き及ぼす、

①身体に具わっている大小の妙なる特徴(相好
②智慧と慈悲の働きを具えた仏の身体から放たれる光明
③聞くものをさとりの境地へ自ずと導く巧みな説法
④すべての命あるものに利益を与えること(利生)
などのすべての功徳、これらの功徳がことごとく摂(おさ)め尽くされているのです。それ故、阿弥陀仏の名号をとなえるお念仏の功徳は最も勝れているのです。

その他の諸行はそうではありません。お念仏以外の行は、いずれかの功徳が込められているに過ぎません。こうしたことから諸行の功徳は劣っているといえるのです。

【解説】

「お念仏には勝れた功徳があり、その他の諸行は劣った功徳にとどまる」 という 「勝劣の義」は、それまでの仏教の歴史上に類を見ない、まさに驚天動地ともいえる主張でした。

法然上人以前にも、お念仏の功徳を讃えた祖師は多くいました。
しかし、静めた心に仏の姿や極楽浄土の様相をありありと思い描く観想念仏など、高度な実践を伴う修行の功徳が劣り、 「南無阿弥陀仏」と口にとなえるだけのお念仏の功徳が勝るという主張は画期的なものでした。

ここで上人がいう「すべての功徳が摂め尽くされている」とは、お念仏をとなえる者を阿弥陀仏は全身全霊をかけてお救いくださるということにほかなりません。だからこそ、他のいかなる行の功徳もお念仏の功徳の足下にも及ばないのです。

【私釈】

お念仏の功徳を例えるならば、世間にある建物のごとくであるといえます。つまり、〈建物〉という呼称の中には、棟・梁・椽・柱など、建物を構成するすべての部材が摂め尽くされています。しかし、〈棟〉や〈梁〉などの呼称はあくまで部材の一つを指すのみで、すべての部材(建物全体)が摂められているわけではありません。こうしたことから、まさに次のことを知るべきです。

お念仏の功徳は、他のあらゆる諸行を修めるよりも勝れているのです。それ故、阿弥陀仏は劣った功徳に留まる諸行を選び捨て、勝れた功徳を具えるお念仏を選び取って、浄土往生の行として本願の中でお誓いになられたのでしょう。

【解説】

法然上人にすれば、これまでのように、阿弥陀仏について説かれた「浄土三部経」や善導大師の著作の中に、お念仏の功徳が勝れ、諸行の功徳が劣っていると説かれている箇所があれば、それをお示しになりたかったことでしょう。しかし、この「勝劣の義」は上人による未曾有の創唱であり、そのような箇所はどこにも見出せません。そのため、多くの典籍に目を通し、思考を重ねた上人は、お念仏と諸行の功徳の勝劣を、それぞれ建物とそれを構成する部材に例えたこの〈屋舎の譬え〉にたどり着かれたのです。

この譬えには、阿弥陀仏がお念仏をとなえる者に大いなる救いの働きを及ぼされるという意図が内包されています。
次回は、 「難易の義」についてです。

  • 林田 康順(はやしだ こうじゅん)
  • 大正大学仏教学部教授
  • 慶岸寺(神奈川県)住職
  • 法然浄土教、浄土宗学が専門。『浄土宗の常識』(共著、朱鷺書房)、『法然と極楽浄土』(青春新書)ほか、著書・論文など多数。