心ゆくまで味わう 法然さまの『選択集』 第24回
浄土宗で〝第一の聖典〟と位置づけられる書物『選択本願念仏集』(『選択集』)。「極楽往生を遂げるためには、何より〝南無阿弥陀仏〟とお念仏をとなえること」とする浄土宗の教えを、宗祖法然上人(1133ー1212)が微に入り細に入り説き示された「念仏指南の書」ともいえるものです。大正大学教授・林田康順先生に解説していただきます。
第3章
弥陀如来余行を以て往生の本願となしたまわず。唯念仏を以て往生の本願となしたまえるの文
⑨
||味わい方
このコーナーでは、『選択集』の現代語訳と林田先生による解説を掲載しています。
現代語訳部分は、篇目(章題)、引文(内容の根拠となる文章の提示)、私釈(引文に対する法然上人の解釈)で構成されています。
【前回】
前号で法然上人は、 『無量寿経』の内容を通じて、第十八・念仏往生願をはじめとする阿弥陀仏の四十八願すべてが完成していることを明らかにされました。今号は、念仏往生願をめぐり二つの問答を提示されます。 はじめに 「念」と「声」の解釈についてです。
【私釈】
〈質問します〉 『無量寿経』にある第十八・念仏往生願には「十念」とあり、それを解釈された善導大師の『観念法門』や『往生礼讃』では「十声」となっています。 「念」と「声」と字が異なっている意味をどのように受けとめればよろしいでしょうか。
〈お答えします〉 「念」と「声」の意味は同じです。どうしてそれを知ることができるのでしょうか。それは、同じく阿弥陀仏について説かれた『観無量寿経』の下品下生の部分に、 「声を絶やすことなく、十遍念じて南無阿弥陀仏ととなえなさい。阿弥陀仏の名号をとなえる一声ごとの功徳によって、これから先、80億劫という、とてつもない長い歳月にわたって生まれ変わり死に変わりを繰り返すという、重い罪の報いを除くことができる」と説かれているからです。
今、この経文に基づけば、 「声」は「念」であり、 「念」は「声」であることは明らかです。
そればかりか、 『大集経』において「大念は大きな仏を見、小念は小さな仏を見る」と説かれています。
『群疑論』において懐感禅師は、この一節を解釈して「大念とは大きな声でとなえる念仏であり、小念とは小さな声でとなえる念仏である」と述べられています。この故に「念」は「唱(となえること)」であることが知られるのです。
【解説】
今でこそ「お念仏」といえば、誰しも「南無阿弥陀仏」と口にとなえる称名念仏をまっ先に思い浮かべることでしょう。ところが、法然上人以前、 「念仏」といえば、心を静めて仏の姿を想念する観想念仏を指していました。
しかし、既述のように、仏の姿は微細であるのに対し、私たちの心は粗雑で安定しないので、観想念仏を修めるのは極めて困難です。だからこそ法然上人は、阿弥陀仏が称名念仏を本願に誓われたことを明らかにしてくださったのです。ここに声の宗教としての浄土宗の教えが確立したのです。
ちなみに、ここで引用された下品下生とは、 『観無量寿経』に説示される九品(九通りの浄土往生の様相)の一つで、仏の教えに耳を傾けずに重い罪を犯してしまった者でも、臨終にあたり心を改めて十遍のお念仏をとなえれば浄土往生を遂げられると、このお経の中で説かれています。九品については、第10章段以降に詳述されます。続いては、 「乃至」と「下至」についての問答です。
【私釈】
〈質問します〉
『無量寿経』にある第十八・念仏往生願の箇所には「乃至」とあり、それを解釈された善導大師の『観念法門』や『往生礼讃』には「下至」とあります。両者の言葉の違いをどのように受けとめればよろしいでしょうか。
〈お答えします〉
「乃至」と「下至」の意味は同じです。 『無量寿経』にある「乃至」とは、 「多い方から少ない方へ向かう」という意味です。すなわち、 「多い」とは「長くは一生涯を尽くしてとなえ続ける」お念仏を、 「少ない」とは「短くは臨終にあたってとなえるわずか十遍や一遍に至る」お念仏を指しています。
また『観念法門』や『往生礼讃』にある「下至」の「下」は、 「上」と相対する意味を持つ言葉です。その「下」とは「短くは十遍や一遍に至る」に、 「上」とは「長くは一生涯を尽くして」に該当します。こうした「上」と「下」を相対的に用いている文の例は多くあります。
阿弥陀仏の第五・宿命智通願には「もし私(法蔵菩薩)が仏(阿弥陀仏)となった暁には、極楽浄土の衆生が過去世のことを知る力を得て、下は(少なくとも)百千億那由他諸劫に至 る過去世を知ることができるようにしよう。もしこの願いが叶わなければ、私は決して仏とならない」と誓われています。この第五願から第九願に至る五つの神通力に関する願、第十二・光明無量願と第十三・寿命無量願(と第十四・声聞無数願)の中に、それぞれ「下至」の言葉が置かれています。すなわち、「下至」とは、多い方から少ない方に至り、下によって上と相対させるという意味があるのです。
これら8種の願に例示されているように、第十八・念仏往生願にある「乃至」とは、すなわち「下至」のことなのです。それ故、善導大師が第十八願を解釈している「下至」の言葉は「乃至」と同じ意味なのです。
【解説】
法然上人が例として引用された第五・宿命智通願には「百千億那由他諸劫」が「下至」の対象とされています。 「那由他」は一千億とも、10の60乗とも70乗ともいわれる実に大きな単位です。それでも「無量億劫」に比べればわずかな期間に過ぎないということで「下至」の対象とされているのです。仏教の世界観の広大さがわかります。
【私釈】
ただし善導大師とその他の諸師とでは、「乃至十念」の解釈が異なります。諸師の解釈では、第十八願の部分的な理解に留まり〈十念往生の願〉と呼称しています。善導大師お一人だけが全体的に理解されて〈念仏往生の願〉とよんでいます。
諸師の言う〈十念往生の願〉では、その意味するところは限定されてしまいます。その理由は、 (十念としてしまうと) 「長くは一生涯を尽くしてとなえ続ける」お念仏、「短くは臨終にあたってとなえるわずか一遍に至る」お念仏を捨ててしまうことになるからです。善導大師の言う〈念仏往生の願〉では、その意味するお念仏の数は限定されません。なぜなら、 「長くは一生涯を尽くしてとなえ続ける」お念仏にもあてはまり、「短くは臨終にあたってとなえるわずか一遍に至る」お念仏にもあてはまるからです。
【解説】
法然上人が指摘されているように、道綽禅師や懐感禅師、恵心僧都や永観律師は〈十〉という数を満たすことを強調され、元興寺の智光は〈諸縁信楽十念往生願〉 、天台宗の真源は〈十念往生願〉と第十八願を呼称したと伝えられています。上人は、 〈十〉に限定をしなかった善導大師だけが阿弥陀仏の真意を見出されていると主張されました。ここに、数にとらわれることなく、ただひたすらお念仏をとなえる専修念仏の礎が固められたのです。この問答をもって第3章段は終わります。
- 林田 康順(はやしだ こうじゅん)
- 大正大学仏教学部教授
- 慶岸寺(神奈川県)住職
- 法然浄土教、浄土宗学が専門。『浄土宗の常識』(共著、朱鷺書房)、『法然と極楽浄土』(青春新書)ほか、著書・論文など多数。