浄土宗新聞

心ゆくまで味わう 法然さまの『選択集』 第26回

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浄土宗で〝第一の聖典〟と位置づけられる書物『選択本願念仏集』(『選択集』)。「極楽往生を遂げるためには、何より〝南無阿弥陀仏〟とお念仏をとなえること」とする浄土宗の教えを、宗祖法然上人(1133ー1212)が微に入り細に入り説き示された「念仏指南の書」ともいえるものです。大正大学教授・林田康順先生に解説していただきます。

第4章
三輩念仏往生の文

||味わい方

このコーナーでは、『選択集』の現代語訳と林田先生による解説を掲載しています。
現代語訳部分は、篇目(章題)、引文(内容の根拠となる文章の提示)、私釈(引文に対する法然上人の解釈)で構成されています。

前回

第4章で法然上人は、『無量寿経』下巻冒頭の上輩・中輩・下輩の三輩について説かれている箇所を引用し、お念仏と他の諸行の関係性について明らかにされます。

前回では、上輩中輩の部分をお伝えしました。上輩では、僧侶となって、さまざまな功徳を修めた結果、阿弥陀仏の来迎にあずかり、速やかに浄土往生を遂げる人、中輩では、出家こそしないものの、戒律を守り、広く仏・法・僧の三宝を敬う日暮らしを続けた結果、阿弥陀仏が現し出すご自身の仮の姿(化仏)の来迎にあずかり、速やかに浄土往生を遂げる人が、それぞれ描かれていました。

今回は、続く下輩の箇所の引用からです。

【引文】

釈尊は弟子の阿難尊者に次のようにおっしゃった。

下輩とは、あらゆる世界のすべての命ある者が、誠の心をもって、極楽浄土往生しようと願うにあたり、上輩中輩のように、諸々の功徳を積むことができなかったとしても、①この上ないさとりを目指す心をおこして、②心を一つにして、長くは一生涯を通じて、短くはわずか十遍であったとしても阿弥陀仏名号をとなえて、③極楽浄土に往生しようと願う者である。

もし阿弥陀仏の救いの働きを聞いて歓喜の心をおこし、深く信じて、疑いの心を抱かずに、短くはわずか一遍であったとしても、阿弥陀仏の名号をとなえて、誠の心をもって極楽浄土に往生しようと願うならば、この者は臨終の際、夢の中で阿弥陀仏にお会いして、そのまま往生を遂げるのである。こうして往生した者が修める功徳や具える智慧は、中輩の者に準じている」

【解説】

このように下輩とは、上輩中輩のように多くの功徳を積むことができなかったとしても、わずかな善行を修めた結果、夢の中で阿弥陀仏にお会いして、浄土往生を遂げ、中輩の者に準じる力を身につける人のことです。

さまざまな事情によって、仏の教えに巡り合うことができなかったり、多くの善行を積む機会に恵まれなかったりしたものの、幸いにもお念仏の教えに帰依することができた方の往生ともいえましょう。経典には、①から③まで、三つの行が挙げられていますが、上輩・中輩と同じく法然上人は、②のお念仏(一向専意乃至十念念無量寿仏[一向に意を専らにして、乃至十念、無量寿仏を念じて])に注目されます。

続いて始まる私釈の冒頭、上人は自問自答の形で解説をした方がよいと考えられたのでしょう、〈問〉と〈答〉という形式を用いて、論を展開していかれます。

【私釈】

私の解釈を申し述べます。
〈質問します〉経文の中で、上輩では、お念仏のほかに「家を捨て、欲を離れる」などの諸行、中輩では、「仏塔や仏像を造立する」などの諸行、下輩では、「この上ないさとりを目指す心をおこす」などの諸行が説かれています。どうして、本章の篇目において、これら他の諸行について言及せず、ただ「念仏往生」とだけ述べたのですか。

〈お答えします〉この点について、善導大師の『観念法門』には、「またこの『無量寿経』下巻の冒頭において、釈尊は、すべての命ある者が本来的に具えている資質や能力はさまざまで、上・中・下の3通りに分けられる、と述べられている。その資質や能力に応じて釈尊は、上輩・中輩・下輩について細かく説示されたものの、そのすべての者に共通して、もっぱら阿弥陀仏名号をとなえることを勧められている。その教えを受けて念仏をとなえた者は、命が終わろうとする時、阿弥陀仏が極楽の聖者とともにみずから念仏行者のもとへ迎えに来られて、極楽浄土へと導き、ことごとく往生を遂げさせてくださる」とあります。

この善導大師による解釈に基づけば、三輩はいずれも念仏によって往生する、ということができるのです。

【解説】

ここで法然上人は、善導大師がお念仏の教えについて解説した『観念法門』の「釈尊三輩のすべてにおいて念仏を勧めている」という一節を紹介して、本章の篇目で「三輩念仏往生の文」と述べられた根拠とされます。

なるほど、前回紹介したように上輩の五つの行、中輩の七つの行のなかにはいずれも「心を一つにしてただひたすら阿弥陀仏の名号をとなえる」とあり、下輩の行のなかにも「阿弥陀仏名号をとなえる」とあるように、三輩すべてにお念仏の実践が説かれているのです。

【私釈】

〈質問します〉この『観念法門』の解釈だけでは、まだ前に提示した質問に答えきれてはいません。どうして、本章の篇目において、『無量寿経』に種々に説かれている他の諸行を捨てて取り上げず、ただお念仏だけを取り上げて「念仏往生」と述べたのですか。

〈お答えします〉釈尊が他の諸行を説いたのは、次のような三つの理由が考えられます。

一つには、諸行を修めることを人々にやめさせて、最終的にお念仏一行に帰依させるため。

二つには、さまざまな諸行を修めることを通じて、人々にお念仏をとなえる心をおこさせる、あるいは、より多くお念仏をとなえさせるため。

三つには、お念仏にもその他の諸行にも、それを修める人々に応じて、それぞれ上・中・下という3通りの捉え方があることを示すためです。

【解説】

法然上人は、『観念法門』だけでは明らかにできなかった点について、今一度問答を設定されます。

すなわち、前の問答の通りであれば、わざわざ上輩で五つ、中輩で七つ、下輩で三つの行をそれぞれ挙げる必要などなく、お念仏だけを説けばよいのではないか、ということです。

この問いに対して上人は、3種の理由を提示されます。これらはそれぞれ「廃立の義」「助正の義」「傍正の義」といい、総じて「廃助傍の三義」と呼んでいます。

次回は、「廃立の義」について細かく説き示されていきます。

コラム 大師号

新天皇が即位され、令和の御代を迎えました。日本には、高徳の僧侶が天皇から下賜される「大師号」というものがあり、伝教大師(最澄)や弘法大師(空海)などが有名です。

法然上人はこの大師号を何度も贈られています。じつは複数の大師号が贈られたのは、上人ただお一人。元禄10(1697)年に円光大師が贈られたのを契機として、法然上人の500回忌以降、東漸・慧成・弘覚・慈教・明照・和順・法爾にと50年毎の年忌法要で贈られ、合計八つの大師号を賜っています。上人の高い徳は歴代天皇からも広く讃えられてきたのです。

  • 林田 康順(はやしだ こうじゅん)
  • 大正大学仏教学部教授
  • 慶岸寺(神奈川県)住職
  • 法然浄土教、浄土宗学が専門。『浄土宗の常識』(共著、朱鷺書房)、『法然と極楽浄土』(青春新書)ほか、著書・論文など多数。