浄土宗新聞

心ゆくまで味わう 法然さまの『選択集』 第28回

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浄土宗で〝第一の聖典〟と位置づけられる書物『選択本願念仏集』(『選択集』)。「極楽往生を遂げるためには、何より〝南無阿弥陀仏〟とお念仏をとなえること」とする浄土宗の教えを、宗祖法然上人(1133ー1212)が微に入り細に入り説き示された「念仏指南の書」ともいえるものです。大正大学教授・林田康順先生に解説していただきます。

第4章
三輩念仏往生の文

||味わい方

このコーナーでは、『選択集』の現代語訳と林田先生による解説を掲載しています。
現代語訳部分は、篇目(章題)、引文(内容の根拠となる文章の提示)、私釈(引文に対する法然上人の解釈)で構成されています。

前回

前回は法然上人は、お念仏とその他の行の関係について、3種の理由を提示される中、①廃立の義について述べられました。今号は、②助正の義についてです。

【私釈】

第二に、さまざまな行を修めることを通じて、人々にお念仏をとなえる心をおこさせる、あるいは、より多くお念仏をとなえさせるために、あえて諸行を説いているという「助正の義」について説明します。

これはさらに次の2通りに分けられます。一つ目は、阿弥陀仏や極楽浄土に直接関係する善行である〈同類の善根〉によって、よりお念仏に心を向けさせること。二つ目は、阿弥陀仏や極楽浄土には直接関係しない種々雑多な善行である〈異類の善根〉によって、よりお念仏に心を向けさせることです。

【解説】

ここで法然上人は、よりお念仏に私たちの心を向けさせる善根を〈同類の善根〉と〈異類の善根〉の2つに分類されます。この両者を区分する基準は、阿弥陀仏や極楽浄土に直接関係するかしないかです。上人は、同類の善根は『観経疏』、異類の善根は『往生要集』に基づいてそれぞれ整理を施されます。

【私釈】

はじめに〈同類の善根〉によるとは、善導大師の『観経疏』に説かれる五種正行の中、
①もっぱら「浄土三部経」を読誦する〈読誦正行〉
②もっぱら阿弥陀仏のお姿や極楽浄土の妙なる様相を観察する〈観察正行〉
③もっぱら阿弥陀仏を礼拝する〈礼拝正行〉
⑤もっぱら阿弥陀仏を讃歎し供養する「讃歎供養正行」
という四つの助業をあげて、④もっぱら阿弥陀仏の名号をとなえる「称名正行」へと行者の心を向かわせる善行としていました。これら四つの助業が〈同類の善根〉に該当します。

詳細については、2章段において解説した通りです。

【解説】

ここでは〈同類の善根〉について解説されます。すでに『選択集』2章段において法然上人は、『観経疏』に基づいて、あらゆる行を阿弥陀仏や極楽浄土に直接関係する五種正行と関係しない雑行に分け、その五種正行を、さらに称名正行である正定業(お念仏)とそれ以外の四つの助業に分けられました。同類の善行とは、ここでいう助業を指します。

助業を修めれば、浄土往生への思いが高まり、一層お念仏がとなえられるのです。ちなみに『選択集』本文には「五種の助行」とあり、これは讃歎供養正行を讃歎と供養に分けて2種類として数えているからです。

【私釈】

次に〈異類の善根〉によるとは、以下の通りです。

まず上輩について、その行をまさに修めるべき〈正行〉と、正行に行者の心を向かわせる〈助行〉とに分けると、「心を一つにしてただひたすら阿弥陀仏の名号をとなえること」は正行となり、また、助行の実践を通じて行者の心が向かう行となります。一方、「出家して欲を離れて僧侶となること」や「さとりを目指す心をおこすこと」などは助行となり、行者の心をより正行へ向かわせる行となります。

こうした理解は、恵心僧都の『往生要集』の中に「極楽浄土へ往生するための行には念仏を根本とする」と言われている通りです。それ故、ひたすらお念仏を修めるために、出家して欲を離れて僧侶となり、あるいは、さとりを目指す心をおこすなどの行が説かれているのです。

それらの行の中、「出家して僧侶となり、さとりを目指す心をおこす」などの行は、仏道を歩みはじめるにあたって出家したり、さとりを目指す心をおこしたりすることを指しており、いずれもわずかな時間しか必要としません。それに対してお念仏は、日々相続して、命終えるまで後戻りしない行です。ですから、出家して僧侶となり、さとりを目指す心をおこすなどの行は、お念仏の妨げとなる行ではなく、より多くお念仏をとなえさせる行となるのです。

【解説】

ここから〈異類の善根〉について解説が施されます。法然上人は、『往生要集』の「念仏を本と為す」という一節を引用し、〈念仏=根本(中心)、異類の善根=枝葉(末端)〉という関係性を示されます。なるほど、上輩に説かれる僧侶となることも、さとりを目指す心を起こすことも、より多くお念仏をとなえる契機となるのであれば、異類の善根に位置づけられるのです。

【私釈】

中輩の中に、また「仏塔や仏像を造立すること」や「華麗な絹の布で仏塔や仏像を飾り、灯明を捧げ、花を撒き、香を焚いて仏を供養すること」などの種々の行が説かれています。これらの行は、行者の心をよりお念仏に向けさせるものです。その意味内容については『往生要集』に見出せます。すなわち、その第5「助念方法」の中、お念仏を修める際の道場や供物について明かされる「方処供具」などに説かれている通りです。

下輩の中に、「さとりを目指す心をおこす」とあり、またお念仏が説かれています。これらの行をめぐる正行と助行の関係については、前の上輩に準じて理解すべきです。

【解説】

ろうそくを灯し、花を生け、線香を焚くことは、読者の皆さんもお仏壇の前で日ごろから実践されているでしょう。これらの勤めを通じて私たちは、お浄土への思いが募り、より多くお念仏をとなえるよう促されているのです。

こうした〈異類の善根〉について法然上人は「必ず往生するのだという信が確立すれば、他の善根と縁を結ぶことは決して雑行とはなりません。むしろ浄土往生に心を向かわせる行となるのです」(『禅勝房に示されける御詞』)と、信仰の確立によって雑行が異類の善根となる流れを示されました。さらに「衣食住の三つは、お念仏をとなえるための大切な行なのです」(『十二問答』)と、日常の生活を整えて、より良い念仏生活を送るべきことを促されています。

コラム 二十五三昧会

選択集』でたびたび引用される『往生要集』は、お念仏を中心にさまざまな往生の方法がまとめられた書物です。そこに書かれる浄土往生を目的に、寛和2年(986)、比叡山横 川にある首楞厳院の僧25名によって始められた二十五三昧会という念仏結社(集団)がありました。

仏教では、私たちが輪廻する迷いの世界「六道」をさらに25に細分(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界で計4、人界を4、天界を17)し、「二十五有」といっています。源信は、こうした二十五有(六道)から離れ出て、浄土往生を目指すための実践として、ひたすらお念仏を修めることを中心とする儀式を定め、『二十五三昧式』『六道講式』と名付けました。25名の僧たちは、毎月15日に集まって二十五三昧式を修し、臨終までお互いに支え合うことを誓うとともに、修功徳を六道のすべての命あるものに回向し、ともに浄土往生を願ったのです。

  • 林田 康順(はやしだ こうじゅん)
  • 大正大学仏教学部教授
  • 慶岸寺(神奈川県)住職
  • 法然浄土教、浄土宗学が専門。『浄土宗の常識』(共著、朱鷺書房)、『法然と極楽浄土』(青春新書)ほか、著書・論文など多数。