浄土宗新聞

心ゆくまで味わう 法然さまの『選択集』 第31回

投稿日時

浄土宗で〝第一の聖典〟と位置づけられる書物『選択本願念仏集』(『選択集』)。「極楽往生を遂げるためには、何より〝南無阿弥陀仏〟とお念仏をとなえること」とする浄土宗の教えを、宗祖法然上人(1133ー1212)が微に入り細に入り説き示された「念仏指南の書」ともいえるものです。大正大学教授・林田康順先生に解説していただきます。

第5章 念仏利益の文①

||味わい方

このコーナーでは、『選択集』の現代語訳と林田先生による解説を掲載しています。
現代語訳部分は、篇目(章題)、引文(内容の根拠となる文章の提示)、私釈(引文に対する法然上人の解釈)で構成されています。

【篇目】

『無量寿経』の結論部分において、釈尊が、「お念仏をとなえた者には極めて大きな利益(仏の力によって授かる恵み) がもたらされる」と説き示されていることを明らかにする章です。

【引文】

『無量寿経』下巻には次のように記されています。
 「釈尊が弥勒菩薩に次のようにおっしゃった。
 阿弥陀仏の名号をとなえれば必ず浄土往生がかなう、ということを教えられ小躍りするほど喜びに満ちあふれ、一生涯にわたり念仏を相続するならばもちろん、わずか一遍であったとしても念仏をとなえたならば、この人は浄土往生をはじめとする実に大きな利益がもたらされることを知るべきである。すなわち、この上ない最高の功徳(良い結果をもたらす働き)を体得することとなる」と。
 善導大師の『往生礼讃』にも「阿弥陀仏の名号をとなえれば必ず浄土往生がかなうと聞き、喜びに満ちあふれて、一生涯にわたる念仏の相続はもちろん、わずか一遍であったとしても念仏をとなえたならば、これらの人々はすべて浄土に往生することがかなう」と述べられています。

【私釈】

私の解釈を問答の形にして申し述べます。
〈質問します〉第4章段において言及した上輩・中輩・下輩という三輩の経文によれば、釈尊はお念仏の他に菩提心(さとりを目指す心)をおこすことなど、さまざまな行の功徳をあげています。どうしてそうした行の功徳を讃歎(ほめたたえること)せず、ただお念仏一行の功徳を讃歎されているのですか。
 〈お答えします〉仏の尊い御心は推し測りがたく、たやすく理解できるものではありませんが、きっと深いお考えがおありなのでしょう。
 もし善導大師のお考えに基づいて、お念仏の功徳だけを讃歎された意図を探し求めてみれば、釈尊は正面からただお念仏の一行を説こうと望まれたものの、浄土往生を願う者の資質や能力がさまざまであることを考慮され、ひとまず菩提心などのさまざまな行をお説きになって、人々の資質や能力に応じて行の浅い深いなどの異なりを三輩として峻別し、示されたと言えるでしょう。
 しかし、『無量寿経』の結論部分において釈尊は、さまざまな行をとうに捨て去って讃歎されず、置き放って言及されず、ただお念仏の一行だけを、選び取って讃歎されたのです。よくよく思いを巡らせて、こうした釈尊の真意を判断しなければいけません。
 もしお念仏に要約して三輩の異なりを峻別するなら、これに二つの意味があります。一つ目は、お念仏をとなえる人々の心のありようの浅い深いによって峻別するということ。二つ目は、となえたお念仏の数の多い少ないによって峻別するということです。
 まず、「心のありようの浅い深いによって峻別する」とは、すでに第4章段で引用した『往生要集』に説かれている通りです。すなわち、「念仏の行は、もし経典の説示通りに行ずるならば、道理としては上品上生に該当する」と説かれるように、となえる人の心の浅い深い、つまり経典が説き示している通りの心のままに行じることができるか否かによって、三輩の違いがあるということです。

【林田先生の解説】

前の第4章で法然上人は、『無量寿経』における浄土往生を願う人の資質や能力、往生の様子を三つに分類した三輩の部分で、釈尊がお念仏を主題としているにも関わらず、それ以外の諸行を説かれた理由について、3通りの解釈を提示され、最終的にそのなか、お念仏一行に帰依させるため、あえて諸行を説いているという〈廃立の義〉こそ、その真意であると導き出されました。それを受けてこの第5章では、釈尊がお念仏をとなえた者に広大な利益と最高の功徳がもたらされると述べられたことについて解釈をされていきます。
 今回、法然上人はこの章の話の根拠となる経典として『無量寿経』と『往生礼讃』を引用、そこで釈尊が念仏だけを褒めたたえた理由を述べられます。
 多くの経典は、序論・本論・結論に相当する序分・正宗分・流通分という3段落に分けられます。ここで引用される『無量寿経』の一節は、流通分にあたり、本経の結語に該当します。つまり釈尊は、わずか一遍でもお念仏をとなえた者に広大な利益と最高の功徳がもたらされることを結論とされたのです。さらにこうした利益を確信すれば、私たちは思わず小躍りするほどの喜びに包み込まれるとし、このことがいかに喜ばしいかを述べられます。
 続く『往生礼讃』では、これを受けて善導大師が、そうした利益と功徳のなかでもっとも大事なことこそ、浄土往生の実現に他ならないと強調されたことを取り上げています。これらを踏まえ、法然上人は解釈を始められます。
 まず上人は「なぜ釈尊が諸行を讃えることなく、お念仏一行を讃えられたのか」との質問を設けます。そして回答として、「仏の尊い御心は測りがたく、たやすく理解できるものではありません(聖意測り難し)」とひとまず保留します。その上で法然上人は、善導大師の『観経疏』に書かれる「阿弥陀仏の第十八・念仏往生願をあおぎみるならば、釈尊の本意は、全ての衆生に阿弥陀仏の名号をとなえさせることにある」という一節を踏まえて、釈尊が私たちの世界に現れた目的は、菩提心をおこすなどの諸行を勧めるためではなく、ただお念仏一行の勧進にあることを明らかにしようと尽力されたのです。
 ちなみに『選択集』のなか、「聖意測り難し」という一節は、ここと第3章に登場します。この2箇所に共通するのは、お念仏と諸行の功徳をめぐる明確な価値判断を下すにあたり、聖意、すなわち仏が説かれた教えを直接的根拠とすることが困難な点です。法然上人は自身が確立を目指されている「お念仏が勝(優れた)・大(大きい)・易(修め易い)という功徳を有するのに対して、諸行は劣(劣った)・小(小さい)・難(修め難い)という功徳に留まる」ということを明示した経文を提示できなかったのです。
 しかし上人は、他の修行からお念仏が一人立ちすること、そして浄土一宗の独立を目指して、他の諸行が足元にも及ばないほどのお念仏の偉大な功徳を明らかにする必要に迫られていました。そこで様々な経典や善導大師の著述を引用しながら、着実にその論拠を形作っていかれるのです。

  • 林田 康順(はやしだ こうじゅん)
  • 大正大学仏教学部教授
  • 慶岸寺(神奈川県)住職
  • 法然浄土教、浄土宗学が専門。『浄土宗の常識』(共著、朱鷺書房)、『法然と極楽浄土』(青春新書)ほか、著書・論文など多数。