心ゆくまで味わう 法然さまの『選択集』 第34回
浄土宗で〝第一の聖典〟と位置づけられる書物『選択本願念仏集』(『選択集』)。「極楽往生を遂げるためには、何より〝南無阿弥陀仏〟とお念仏をとなえること」とする浄土宗の教えを、宗祖法然上人(1133ー1212)が微に入り細に入り説き示された「念仏指南の書」ともいえるものです。大正大学教授・林田康順先生に解説していただきます。
第6章 末法万年の後に余行ことごとく滅し、特り念仏を留むるの文①
【篇目】
『無量寿経』の結論部分において釈尊は、仏法(仏の教え)が衰え、さとりを開く者はもちろん、仏道実践を満足に修められる者さえいなくなる時代(末法)からさらに1万年の時代が過ぎると、仏法の存在すらなくなる法滅の時代となり、諸行がことごとく滅び去ってしまうけれども、それでもなお、ただお念仏一行をとどめ残すことを説き明かされている章です。
【引文】
『無量寿経』下巻には次のように述べられています。
「未来に必ず訪れる法滅の時代において、種々の経典が滅び、仏道実践が尽きたとしても、私(釈尊)は、慈悲の心、哀れみの心を発し、この『経』だけを選び取って、この世に100年の間とどめ置くこととしよう。そして、もし命ある者が、この『経』に巡りあい、阿弥陀仏の極楽浄土への往生を願って念仏をとなえたならば、その者たちの浄土往生の願いをかなえ、さとりの境地へ導くようにしよう」と。
【私釈】
私(法然)の解釈を問答の形にして申し述べます。
〈質問します〉『無量寿経』の経文には、「この『経』だけを選び取って、この世に100年の間とどめ置くこととしよう」と述べられているのであって、「念仏一行だけを選び取って」とは述べられていません。それなのに、どうして本章の篇目において「ただ念仏一行をとどめる」と言うことができるのですか。
〈お答えします〉『無量寿経』が最終的に目指すところは、お念仏の勧奨にあります。その主旨については、すでに第3・4・5章段において見てきた通りであり、ここで再び書き記すことは致しません。善導大師・懐感禅師・恵心僧都といった祖師方の御心も同様にお念仏を勧めることにあります。『無量寿経』をとどめ置くということは、すなわち、お念仏をとどめ置くということに他ならないのです。
また、お念仏一行をとどめ置くと主張する理由は、次の通りです。
『無量寿経』には、菩提心(さとりを目指す心)や持戒(種々の戒律を守る)の行について言及しているものの、その具体的な実践方法は説かれていません。菩提心の具体的な実践方法は、『荘厳菩提心経』などの経典に、持戒の具体的な実践方法は、『梵網経』『菩薩瓔珞本業経』といった大乗の経典や、『四分律』『摩訶僧祇律』といった小乗の律蔵に広く説かれています。しかし、それら一連の経典が『無量寿経』より先に滅んでしまったならば、どの仏典に基づいて修めればよいのでしょうか、いや修めることはできなくなってしまいます。ほかの諸行についても、菩提心や持戒の行と同じです。
それ故、善導大師の『往生礼讃』には、この『無量寿経』の一文を解釈して、「末法から1万年の時代を経た後、仏・法・僧の三宝が滅んでしまう法滅の時代を迎えたとしても、この『経』だけは、100年の間とどめ置かれる。その時、本願念仏のいわれを聞いて、わずか一遍であっても念仏をとなえたならば、その者はみな、極楽浄土への往生がかなうのである」と述べられているのです。
【林田先生の解説】
法然上人は、第3章で阿弥陀仏が浄土往生のための本願行として諸行を選び捨てて、念仏一行を選び取られたことを、第4章で釈尊が諸行を廃し、私たちを念仏一行に帰依させることを、第5章でお念仏をとなえた者に広大な利益と最高の功徳がもたらされることを明らかにされました。
それらを受けて本章では、すべての仏法が滅びる法滅の時代になっても、釈尊が念仏一行をとどめ残され、その広大な利益が時代を超えて貫かれることを明らかにされます。ちなみに第3章から第6章は、『無量寿経』を中心とした内容であることから「無量寿経撮要」といわれます。
法然上人は前章同様、『無量寿経』の結論部分の一節を引文とされます。ここで釈尊は、末法の世を経た法滅の時代において、『無量寿経』を100年の間とどめ残すと述べられます。末法とは、三時思想という仏教の時代観に基づく時代で、混沌として、人々の煩悩が増すとされます。三時とは、釈尊が亡くなってから500年間(千年とも)の、「教(釈尊の教え)」「行(修行者)」「証(さとりを開くこと)」が残る正法。次の千年間(500年とも)の、「教」「行」が残る像法。続く一万年間が、「教」だけが残る末法です。そして、末法を過ぎた後、すべての仏法が滅びる法滅の時代を迎えます。しかし釈尊は、『無量寿経』をもっとも尊い経典と捉え、他の経典がすべて滅んだとしても、『無量寿経』だけをとどめ残すことを明言されたのです。
引文に続けて法然上人は、〈経文には「この『経』をとどめる」とだけ説かれているのに、なぜ篇目には「念仏をとどめる」と示しているのか〉との問いを設けます。それに対して、〈『無量寿経』において釈尊が究極的に目指すところはただ一つ、阿弥陀仏が浄土往生のための本願行として誓われたお念仏の勧奨にあり、だからこそ、〝この『経』をとどめる〟とは、〝「念仏」をとどめること”に他ならない〉と主張されるのです。
この点について上人は、後に引用する善導大師の『往生礼讃』、あるいは懐感禅師の著作『群疑論』の「上・中・下の三輩に説かれる念仏に浅い・深いの相違はあるものの、いずれも皆ただひたすら阿弥陀仏の名号をとなえれば極楽浄土に往生することができると説かれている」、また、恵心僧都の著作『往生要集』の「『無量寿経』の三輩に説かれる行に浅い・深いの相違はあるものの、そのすべてに共通して、ただひたすら阿弥陀仏の名号をとなえると説かれている」などの一節に基づき、善導大師・懐感禅師・恵心僧都といった浄土教の教えをひろめた祖師方も同じ思いであると訴えられます。
さらに上人は、『無量寿経』をとどめ残すこととお念仏をとどめ残すことが同義であると証明するため、法滅の時代に『無量寿経』だけが残ったとしても、実践方法が残らない菩提心や持戒は修めようがないと主張されます。第3章以降、法然上人が縷々述べられたように、『無量寿経』には、お念仏一行のみ、そのいわれはもとより、功徳の広大さなどが説かれているからです。
最後に法然上人は、善導大師の『往生礼讃』の一節を引用し、ご自身の主張の正しさを重ねて訴えるとともに、釈尊の真意を明らかにすることに努められるのです。

- 林田 康順(はやしだ こうじゅん)
- 大正大学仏教学部教授
- 慶岸寺(神奈川県)住職
- 法然浄土教、浄土宗学が専門。『浄土宗の常識』(共著、朱鷺書房)、『法然と極楽浄土』(青春新書)ほか、著書・論文など多数。