心ゆくまで味わう 法然さまの『選択集』 第36回
浄土宗で〝第一の聖典〟と位置づけられる書物『選択本願念仏集』(『選択集』)を大正大学教授・林田康順先生が解説。
第6章 末法万年の後に余行ことごとく滅し、特り念仏を留むるの文③
お念仏の功徳は、時代を超えすべての人々に
【私釈】
〈質問します〉すでに『無量寿経』に「未来に必ず訪れる法滅の時代において、種々の経典が滅び、仏道実践が尽きたとしても、私(釈尊)は、慈悲の心、哀れみの心を発して、この『経』だけを選び取って、この世に100年の間とどめ置くこととしよう」と説かれています。もしそのように、釈尊が慈悲の心を発して、経典や教えをとどめ置かれるならば、どのような経典や教えでもかならずとどまることでしょう。ところが、どうして釈尊は、『無量寿経』だけをとどめ置かれ、他の経典はそうしなかったのでしょうか。
〈お答えします〉たとえ、あまたある経典のうちのどれであろうとも、とりたてて一つの経典だけが指し示されれば、こうした非難を避けることはできません。にもかかわらず、『無量寿経』だけをとどめ置かれたことには、きっと釈尊の深い御心があるのでしょう。
このことを、かりに善導大師の御心に照らし合わせて考えるならば、『無量寿経』には、阿弥陀仏が誓われた念仏往生の本願が説かれています。釈尊は慈悲の心に基づいてお念仏をとどめるため、『無量寿経』だけを選ばれたのです。なぜならば、他のどの経典にも、阿弥陀仏が誓われた念仏往生の本願は説かれていません。それ故、釈尊は慈悲の心に基づいて、『無量寿経』以外の経典をとどめ置くことをされなかったのです。
また、阿弥陀仏の四十八願は、いずれも人々を救いとるための大切な本願ですが、とりわけ第十八願においてお念仏を浄土往生のための根本的な行と定められました。そのことから、善導大師の『法事讃』には、「阿弥陀仏の広大な誓願は48に及ぶけれど、もっぱら念仏を浄土往生の行と誓われ、念仏こそ阿弥陀仏と浄土往生を目指す者にとってもっとも親しい縁とされた。われわれが阿弥陀仏の名号をとなえ念じれば、阿弥陀仏もわれわれを念じて下さる。われわれが心をもっぱらにして阿弥陀仏を想えば、阿弥陀仏もわれわれを想い、知って下さる」と示されているのです。
それ故、阿弥陀仏の四十八願の中、第十八「念仏往生の願」こそ本願の中の王と捉えられるのです。こうしたことから、釈尊は慈悲の心に基づいて、お念仏が説かれている『無量寿経』だけを選び取って、法滅の時代を迎えてもこの世に100年の間とどめ置くとされたのです。例えるならば、『観無量寿経』の中で釈尊が、静めた心で修める行(定善)や散り乱れる心でも修められる行(散善)を細かく説き明かされたにもかかわらず、それらを後の世に伝え託すこと(付属)をせず、ただお念仏一行を伝え託されたようなものです。すなわち、お念仏こそ阿弥陀仏の本願に素直にしたがっている行なので、釈尊は念仏一行だけを後の世に付属されたのです。
〈質問します〉法滅を迎えて100年の間、釈尊がお念仏一行をとどめ遺されることについての道理は理解しました。それでは、このお念仏による救いのはたらきは、法滅を迎えて100年の間に生きる人々だけが受けることができるのでしょうか、それともそれ以前の正法・像法・末法の時代に生きるすべての人々も等しく受けられるのでしょうか。
〈お答えします〉阿弥陀仏による救いのはたらきは、広く正法・像法・末法という時代を通じて、お念仏をとなえるすべての人々に等しく及びます。釈尊は、法滅というはるか後の世をあげることによって、正法・像法という時代はもとより、末法という今の世においてもお念仏による救いのはたらきが及ぶことを明らかにして、お念仏の実践を勧めておられるのです。まさに私たちは、こうした意味合いを知らねばなりません。
【林田先生の解説】
前回、法然上人はすべての仏法が滅びる法滅の時代になったとしても、釈尊が『無量寿経』をとどめ遺されることから、そこに示される浄土門、西方極楽浄土、お念仏による往生は私たちとの縁が深く、濃く、多いことを明らかにされました。今号で取り上げた部分で上人は、このことについて二つの問答を設定し、釈尊の真意を明らかにしていきます。
まず一つ目の問答では、いかなる経典であっても、特定の経典を選び取ってとどめ遺されたとすれば、さまざまな非難を避けることが難しいにもかかわらず、なぜ釈尊は『無量寿経』だけをとどめられたのかを考察されます。その結果、善導大師の考えに照らし合わせ、『無量寿経』には阿弥陀仏の念仏往生の本願が説かれていることから、慈悲の心を起こされてとどめられたとされます。
そもそも釈尊は、『無量寿経』において「如来とは、尽きることのない大慈悲の心をもって迷いの世界に生きる人々を深く哀れむ者である」、『観無量寿経』において「仏心とは、大慈悲に他ならない。分け隔てない慈悲の心をもって、すべての命ある者を救い摂る」と述べられています。
つまり釈尊は、仏(如来)とは、すべての命ある者を真実の世界へ正しく救い導こうとする大いなる慈悲の心を具えた者であるとされているのです。
このことから、阿弥陀仏による四十八願の建立、中でも、すべての人々を平等に極楽浄土へと救い導くために誓われた第十八・念仏往生願こそ、大いなる慈悲心の真の顕現であると受けとめられ、それが説かれた『無量寿経』をとどめられたのです。
さらに法然上人は、善導大師の『法事讃』の内容に基づいて、大慈悲を本心とする阿弥陀仏にとって、救いの対象となる人々と親しい縁を結ぶ手だてとなるお念仏を誓われた念仏往生願こそ「本願の中の王」であると示され、後に「第十八願は王本願、ほかの四十七願はその臣下である」(義山著『和語灯録日講私記』)などと呼称されるまでになるのです。
もちろん、このように法然上人が明言できたのも、「念仏を以て王三昧とす」(『選択集』第11章)と述べられるように、すべての修行の中、お念仏こそ最も勝れた功徳があるからに他なりません。
最後に上人は、『観無量寿経』最末尾の内容を示し、釈尊の真意が本願念仏を後世に伝え託そうとされたことをあらためて確認されました。
次に二つ目の問答において法然上人は、釈尊がお念仏をとどめ遺されたことについて、お念仏の救いのはらきは、法滅を迎えてからの100年の間に限定されるのか、時代を超え及び続けるのかという問いを設け、そのはたらきは時代を超えてすべての人々に及び続けると回答されます。
これは、はるか先の仏教が滅んでしまう法滅の時代をあげることによって、それ以前にやってくる、さとりをひらく方がいる時代(正法)や人々が修行に励むことができる時代(像法)はもちろん、今私たちが生きるまだ仏の教えだけが残っている時代(末法)にもお念仏の救いの働きが間違いなく及ぶことを強く訴えて、その実践を促されたのです。以上で第6章が終わります。

- 林田 康順(はやしだ こうじゅん)
- 大正大学仏教学部教授
- 慶岸寺(神奈川県)住職
- 法然浄土教、浄土宗学が専門。『浄土宗の常識』(共著、朱鷺書房)、『法然と極楽浄土』(青春新書)ほか、著書・論文など多数。