浄土宗新聞

心ゆくまで味わう 法然さまの『選択集』 第37回

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浄土宗で〝第一の聖典〟と位置づけられる書物『選択本願念仏集』(『選択集』)を大正大学教授・林田康順先生が解説。

第7章 弥陀の光明余行の者を照らさず、ただ念仏の行者を摂取したもうの文①

阿弥陀仏と念仏者の 関係は親子のごとし

【現代語訳】

篇目

阿弥陀仏から放たれる光明は、お念仏以外のさまざまな行を修めている者を照らすことなく、ただお念仏をとなえている者だけを照らして、救い摂って下さることを明らかにする章です。

引文

『観無量寿経』のなか、阿弥陀仏の真実の姿を観想する修行・真身観を説く箇所には、次のように示されています。
 「阿弥陀仏のお身体には、八万四千と表現される極めて多くの、大きく勝れた特徴である〈相〉が具わっている。その一つひとつの〈相〉には、それぞれ八万四千もの、微細で勝れた特徴である〈好〉が具わっており、その一つの〈好〉ひとつからは、それぞれ八万四千もの光明が放たれている。さらにその一つひとつの光明は、広く行き渡ってあらゆる方角のすべての世界を照らし出して、念仏をとなえるすべての命ある者を救い摂って、決してお見捨てになることはない」。
 このことについて善導大師は、その著『観無量寿経疏』で次のように述べられています。
 「『観無量寿経』に説かれる〔阿弥陀仏のお身体には〕から、〔救い摂って決してお見捨てになることはない〕に至る一節の内容は、まさに阿弥陀仏のお身体に具わった勝れた特徴を観想するにあたり、阿弥陀仏から放たれる光明が縁あるすべての者を照らし出してその者に利益を及ぼすことを明らかにしている。この一節のなかには次の五つのことが説き示されている。
❶阿弥陀仏が具える大きく勝れた特徴である〈相〉の「多い・少ない」。
❷阿弥陀仏が具える微細で勝れた特徴である〈好〉の「多い・少ない」。
❸阿弥陀仏が放たれる光明の「多い・少ない」。
❹その光明が照らす範囲が「遠くまでか・近くまでか」。
❺その光明が及ぶ場所において念仏をとなえる者がもっぱら救いの働きにあずかること。
 質問する。『観無量寿経』では、さまざまな行を修めて、ただひたすら丁寧にその行の功徳を浄土往生のために回向すれば(振り向ければ)、その者たちはみな往生がかなうとされていた。しかし、ここに至ってどうして阿弥陀仏の光明はあまねくすべての世界を照らし出されるにもかかわらず、念仏をとなえる者だけを救い摂られると説かれるのか。そこにはどのような意味が込められているのか。
 答える。これについては阿弥陀仏と念仏者との間に、3種の尊い縁があることを知らねばならない。
 第一に、阿弥陀仏と念仏行者とが人格的に親しい関係を結ぶという親縁を明らかにする。
 命ある者が行を修めるにあたり、口の働きを通じて常に阿弥陀仏の名号をとなえれば、即座に阿弥陀仏はこの呼び声をお聞きになる。身の働きを通じて常に礼拝して敬えば、即座にこの者の姿をご覧になる。心の働きを通じて常に思い念ずれば、即座にこの者の思いをお知りになる。命ある者が心に刻んで想い続ければ、阿弥陀仏もその者を想い続けてくださる。
 このように阿弥陀仏とその者の身と口と心の三つの働きは互いに応じ合い、決してお見捨てになることも、離ればなれになることもない。それ故、親縁と名づけるのである」(※『観無量寿経疏』の引用続く)。

【解説】

 第6章において法然上人は、将来、仏教のあらゆる教えが滅びる法滅の時代になったとしても、釈尊がお念仏の教えが説かれた『無量寿経』をとどめ残されることから、それより前の時代に生きる私たちにも、間違いなくお念仏の救いの働きが及ぶことを明らかにされました。
 今回からはじまる第7章では、阿弥陀仏の光明(仏から発せられる迷いを払い真理を照らし出す光)がお念仏をとなえる者を決してお見捨てにならないことを明らかにされます。
 まず法然上人は『観無量寿経』の一節を本章の引文とされます。この部分は、静めた心で阿弥陀仏のお姿や極楽浄土の様相を13通りに心に想い描く行(定善)のなか、阿弥陀仏の真実の姿を思い描く第九・真身観の一節です。
 ここで釈尊は、阿弥陀仏のお身体から放たれる無量の光明があらゆる世界を照らし出し、お念仏をとなえるすべての者を等しくお救いになると説かれます。
 実際の引文に書かれる「光明徧照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」の16文字は「摂益文」と呼ばれ、浄土宗の日常のお勤めで、ひたすらお念仏をとなえる「念仏一会」の直前に拝読する大切な偈文。また、浄土宗の宗歌である「月かげ」は、この「摂益文」を法然上人が和歌として詠まれたものです。
 続いて法然上人は、善導大師の『観無量寿経疏』を引かれます。大師は、『観無量寿経』の内容を、❶相の多少、❷好の多少、❸光明の多少、❹光明が及ぶ範囲の遠近、❺光明による救いの働きの実現、という5段に分けて解説されます。
 一般的に、私たちのいる世界に現れた仏の身体には、32種類の相と80種類の好が具わっており、光明が及ぶ範囲は一尋(約180㎝)といわれます。それに比べて阿弥陀仏の相と好は実に多く、さらに光明の働きもはるか遠くに及ぶことから、その救いの働きが確実にかなえられるとされたのです。
 善導大師は、この光明の働きは、阿弥陀仏と「縁あるすべての者」に及ぶとされ、問答を通じて、阿弥陀仏との「縁」はお念仏によって結ばれることを明らかにされます。
 続いて、阿弥陀仏と念仏者の間には、親縁・近縁・増上縁という3種の尊い縁(三縁)が結ばれると述べられます。
 このうち最初に登場する親縁とは、阿弥陀仏と念仏者の身体と口と心の三つの働きが互いに応じ合い(三業相応)、人格的に親しい関係が結ばれるというものです。親縁について法然上人は、「あたかも阿弥陀仏と私たちとは親子の関係のようになるので親縁というのです」(「往生浄土用心」)とおっしゃっています。
 さらに上人は、「阿弥陀仏は、御目を見まわしてわが名をとなえる者はいないだろうかとご覧になり、御耳をかたむけてわが名を呼ぶ者はいないだろうかと昼も夜もお聞きになられているのです。それ故、たったひと声のお念仏であっても阿弥陀仏がお気付きにならないことなどありませんし、その光明があなたをお見捨てになるはずもなく、臨終に来迎されることが偽りであろうはずもありません」(示或人詞)と、阿弥陀仏の光明は念仏者を決して見捨てず、必ず浄土往生をかなえられることを述べられています。

教えて 林田先生!

  • 林田 康順(はやしだ こうじゅん)
  • 大正大学仏教学部教授
  • 慶岸寺(神奈川県)住職
  • 法然浄土教、浄土宗学が専門。『浄土宗の常識』(共著、朱鷺書房)、『法然と極楽浄土』(青春新書)ほか、著書・論文など多数。